俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その4

前回まで普天間第二小学校の誕生の経緯と、移転計画が断念した流れについて説明しました。今回は平成22年(2010)1月に産経新聞に掲載された記事について検証します。まず物議を醸した記事をご参照ください(現在リンク先にはアクセスできないため、Web 魚拓等からの全文掲載)。

2010年1月9日 – 産経新聞  【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)に隣接し、ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校(児童数708人)で、これまで2回、移転計画が持ち上がったが、基地反対運動を展開する市民団体などの抵抗で頓挫していたことが9日、当時の市関係者や地元住民への取材で分かった。市民団体などは反基地運動を展開するため、小学生を盾にしていたとの指摘もあり、反対運動のあり方が問われそうだ。(宮本雅史)

普天間第二小は、昭和44年に普天間小から分離。南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しにせっしているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきた。移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。

同時、宜野湾市長だった安次富盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事件を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移転予算も確保した。

ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫した。

同市関係者は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子どもたちを人質にした」と説明している。

その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当る危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せず現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。

当時市議だった安次富修前衆議院議員(53)は「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣合わせでもいいということだった」と話す。別の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子どもたちは反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘している。

ちなみに昭和55年(1980)10月2日と、昭和57年(1982)8月19日に普天間飛行場内で事故があります。前述の記事では「炎上事件を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。」とありますが、炎上事件とは昭和57年8月の事故のことを指します。

実はこの話は、下記記載の沖縄および北方問題に関する特別委員会の内容と矛盾します。昭和57年(1982)3月10日に開催された特別委員会において小渡三郎衆議院議員が、次のように述べています。

「そこで、その移転地につきましては、宜野湾市にありますキャンプ瑞慶覧のFAC6044、ここに新設、移転をすることが得策だということで市の決定を見ているようでございます。そのことは、現地の那覇防衛施設局の方にも要請がここ2ヵ年ばかり続けられているようでございますが、現在の段階で得られた回答は、同じ地域ではあるけれども、もうちょっと西側に移動して – 約5百メーターぐらい移動した地域でございます。地図もございますけれども、皆さんおわかりと思います。それで、5百メーター移動したその地域ならばよかろうということらしいのです。私はその現場を見ました。そうしらた、これは喜友名城とか貝塚とか、いろいろなものがいっぱいあるのですよ。こんなところを地ならしすることは絶対できません。しかも、北側の方は約50メーターぐらいの断崖絶壁なんです。そこへ学校を移せと言っているわけです。これは敷地として不適当でございます。

そこで今度は、いま指定されている地域がまずいならば、その東側の方に第二の候補地を隣接して置いても差し支えないと市当局は言っておるのでございますが、まだ前に進んでないのです。解決しておりません。

上記の小渡三郎委員の質問内容によれば、宜野湾市から那覇防衛施設局への要請がここ2年ばかり(昭和55年から57年の間か)続けられています。ちなみに安次富盛信氏は昭和52年(1977)から昭和60年(1985)まで市長を務めていますので、その間に那覇防衛施設局に移転先を要請しているわけです。昭和55年10月には普天間基地内で事故が発生していますので、小渡議員の質問内容からその事件がキッカケで移転先を探すようになったと考えるほうが真実に近いと思われます。

産経新聞の記事では、「移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。」とありますが、事実はその2年前から移設先さがしが行われていたことになります。この点だけ見ても産経の記事は極めて疑わしい。

しかも「安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移転予算も確保した。」と記載がありますが、沖縄および北方問題に関する特別委員会の質疑をチェックすると、実際には移転先には様々な問題があって、第二の候補地を模索しているが、解決していないと明記されています。この点も大きく矛盾しています。

昭和57年3月の時点では、普天間第二小学校の移転先に関して日米合意も予算確保の事実も確認できず、次なる米軍基地の返還条件は当ブログでも記載したとおり昭和59年(1984)12月になるわけです。その間に安次富氏が主張するような返還合意と予算確保の件はブログ主が確認した限り見つけることができません。宜野湾市選出の県会議員かつ、初代普天間第二小PTA会長だった志村恵氏の回想録『戦後復興ひとすじに』のなかにも普二小の返還交渉の件はひとつも見当たりません。

実は、すでに上記の産経新聞の記事の信憑性について疑う記事を掲載しているブログが2つあります(下記URL参照)。

2010年11月14日 普天間第二小移設問題 https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/20196524.html

2011年11月26日 普天間第二小移設問題 http://foochamploo.ti-da.net/e6010284.html

ブログ主は、このブログに掲載された記事および「沖縄および北方問題に関する特別委員会」の質疑をチェックしましたが、平成22年1月の産経新聞の記事は安次富氏の証言だけを根拠に作成された、極めて信憑性に乏しい記事との結論に達しました。エビデンス(確固たる裏づけ)に欠ける実に無責任な内容と言わざるを得ません。

だがしかし、この産経の記事は『狼魔人日記』など複数のブログなどで拡散され、左翼の人たちによって学校移転計画が頓挫したという誤解を招く結果になってしまいます。それゆえに記事を掲載した宮本雅史記者の責任は極めて大きいと断言せざるを得ないのです。


第96回国会衆議院 沖縄および北方問題に関する特別委員会(昭和57年(1982)3月10日)から普天間第二小学校の質疑に関する部分を抜粋します。

小渡三郎 委員 時間の関係もございますので、またその問題については引き続き、続編は次回にいたすことにします。次は、中部地区に移りまして、普天間第二小学校用地返還に関することでお尋ねをしておきたいと思います。

普天間飛行場の隣接する地域に、これは宜野湾市でございますが、普天間第二小学校がございます。この普天間第二小学校は現在生徒数1232名でございます。この普天間第二小学校の運動場と校舎敷地の保有率でございますが、文部省基準の34パーセントしか確保されていません。そこで、教育環境が非常に悪い、しかも飛行場の滑走路のすぐそばである、隣接しておる、運動場のそばはフェンスに囲まれている、こういう状況でございますから、どうしても移転をせぬといかぬということになったわけでございます。

そこで、その移転地につきましては、宜野湾市にありますキャンプ瑞慶覧のFAC6044、ここに新設、移転をすることが得策だということで市の決定を見ているようでございます。そのことは、現地の那覇防衛施設局の方にも要請がここ2ヵ年ばかり続けられているようでございますが、現在の段階で得られた回答は、同じ地域ではあるけれども、もうちょっと西側に移動して – 約5百メーターぐらい移動した地域でございます。地図もございますけれども、皆さんおわかりと思います。それで、5百メーター移動したその地域ならばよかろうということらしいのです。私はその現場を見ました。そうしらた、これは喜友名城とか貝塚とか、いろいろなものがいっぱいあるのですよ。こんなところを地ならしすることは絶対できません。しかも、北側の方は約50メーターぐらいの断崖絶壁なんです。そこへ学校を移せと言っているわけです。これは敷地として不適当でございます。

そこで今度は、いま指定されている地域がまずいならば、その東側の方に第二の候補地を隣接して置いても差し支えないと市当局は言っておるのでございますが、まだ前に進んでないのです。解決しておりません。したがいまして、ぜひこれはやっていただかなければならないし、同時に国有地もございますから県の方の了解も取りつけなければいかぬということで、知事の方にも要請いたしましたが、知事の方からも正式な回答が出まして、55年12月12日付の宜野湾から要請のあった国有地の分の返還については、国有財産法第九条に基づく委任事務に係る管理財産であるから同意いたしますということになっているわけでございます。

さらに、移転地における地主の皆さん方でございますが、5名おられますけれども、その5名の地主の皆さんも学校用地であるならば結構でございますということで、これも開放に同意をいたしております。それで、その開放を希望している地域は住宅地域なんですよ。平屋でございますから2階にすれば簡単に収容することができるわけでございます。ご検討いただいて、即刻対応していただくように要請をいたしますが、いかがでございますか。

伊藤参午政府委員(防衛施設庁施設部長) 宜野湾市の普天間第二小学校の実情につきましては、先生御指摘のとおりでございまして、私どもとしてもその事情はやはり学校教育の完全を期するという意味で適当でないと思っております。この件につきましては、地元のご要望もございましたので、那覇防衛施設局としましても、この地元の御要請を図るべく対米交渉を精力的にやっております。

ただ、先生もおっしゃっていましたが、当初要望したところは米軍の住宅というものが、一応私どもから言えばまだびっしり全地域にわたって配置されている土地でございまして、これを移設するとかそういうような問題になりますと、かなり問題もございます。米軍としましても、そういった普天間第二小学校の状況について理解を示しまして、いろいろな候補地というものについて、米軍、那覇施設局、それから宜野湾市当局ということで調整中でございます。

確かに先生御指摘のように、貝塚等のある地域もありまして、そういうところは適当ではないじゃないかということで、なお調整しておりますが、防衛施設局としましては、米軍の基地運用等においても大した支障にならず、それから宜野湾市として、これは小学校でございますので当然のように通学学区等の問題もございますので、そういったようなものも踏まえて、事態の早期解決を図りたいと思って現在努力中でございます(中略)。

【関連リンク】

第96回国会衆議院 沖縄および北方問題に関する特別委員会(昭和57年(1982)3月10日)

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/096/0710/09603100710006.pdf

人間の盾に小学生を!普天間移設の真相

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/caf6f9a0f20bf3d24843afaff72d1610

航空機墜落事故(1972年以降)宜野湾市の公式サイトから、昭和55年と57年の部分に注目。

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/00008_00003.pdf

SNSでもご購読できます。