とある善良な市民がマスコミデビューしたときの記事を見つけた件

今回は沖縄戦後の新聞をチェックした際に発見した記事について言及します。昭和25年(1950年)10月14日付うるま新報に掲載された「女中殺し」の事件ですが、後に”善良な市民”としてコザ市で名士扱いを受けた人物の名前が記載されています。

*カンパン:沖縄戦後に各地に設置された収容所兼労務宿舎のこと。RTBカンパンは那覇、AJは普天間にあった。

*被害者の名前は黒字で伏せています。

昭和25年(1950年)10月14日付うるま新報

女給を蹴殺すもと暴力團頭目の兇劇

十二日午后七時三〇分頃本部町伊豆見出身RTBカンパンガード住込、喜舎場朝信(二八)と仝カンパン事務所宮城栄盛(二五)の兩人が那覇十區三組旅館美島荘二階南側三疊間で遊興ビール二本ずつ飲みかけたところ仝室に入つてきた予て知り合いの女中大島名瀬市出身●●●●(二一)と喜舎場が冗談の末口論となり遂に喜舎場が右手で●●の頬を歐打座が亂れたので宮城は喜舎場をつれ出すべく努めたが、喜舎場は立ちながら右足先で更に●●の右脇腹を蹴り●●はそのまゝテーブルにもたれたまゝ蹴られた腹部を右手ておうていたが、約十分後には絕命したもので、那覇署では早速喜舎場を世界館で取押えたが、●●はきのう那覇地区病院源河警官執刀のもとに解剖に●したが外傷もなく、内部も異狀が認められず結局ショック死と断定された、目撃者宮城は「喜舎場は醉つておらず、そう强く蹴るようでもなく女がまさか死ぬとは思わなかつた」と今更のように驚いている、なお●●は去る八月中旬来沖したばかりであるし加害者喜舎場はかつてAJで鳴らした暴力団の頭目で人に嫌われていた。

当ブログの読者なら説明不要でしょうが、喜舎場朝信(きしゃば・ちょうしん)さんの記念すべきマスコミデビューの記事です。ちなみに喜舎場さんは本部町伊豆味出身の兵隊あがりで、戦後は戦果アギャーで名を挙げた人物として知られていますが、昭和40年(1965年)9月5日の沖縄タイムスの特集記事に彼について詳しく記載がありましたので紹介します。

沖縄タイムス特集記事 – 組織暴力(2)より抜粋

実らぬ手打ち式 、発生は終戦 – 戦果 – ヤミ市

(中略)ここで、一転して沖縄の組織暴力の発生にさかのぼってみる。

1945年8月、終戦 – 戦地から若者たちがぞくぞくと帰ってきた。戦火をくぐってきた若者たちの目にうつったのは”敵”米軍のコンセット兵舎と、かつての”敵兵”が沖縄に君臨している姿だった。”特攻精神”をたたき込まれた若者たちにはアメリカ人の顔が憎くうつるのは当然。そこで、沖縄人青年とアメリカ人との間にケンカさたが日に日にふえていった。

当時、普天間にあったAJカンパンには希望のない命知らずの若者たちが数多く、いわゆる軍作業に従事していた。この若者たちは、出身地ごとにグループを組み、夜になると米軍のトラックを持ち出し軍倉庫から毛布をはじめ食料品を盗みだし、ヤミ市に流すなど「戦果」をあげた。一夜で大金を握った若者たちは、バクチをおぼえ、ビンゴに遊びほうけた。

(中略)人間はだれしも「射幸心」をもっている。心が乱れれば乱れるほど、人間は「射幸」を求めいきおい遊技場はふえる。この時流にうまく乗って、成功したのが喜舎場朝信だ。喜舎場は、ビンゴ屋の経営に乗り出し、これが完全に図にあたって成功した。

喜舎場が成功すると、かつての仲間がつぎつぎと喜舎場のビンゴ屋に姿をあらわし、喜舎場を中心に、一つの組織さしいのができ上がってきた。喜舎場は家業を広げる一方、仲間にも金を貸して遊技場の経営など仕事をさせる。遊技場に集まる人間は多種多様だが、もともと腕がたつ喜舎場は知らず知らずのうちに大物にのしあがった。

喜舎場にくっついた若者たちは一定の仕事がなかった。

そこで自然、酒と女とバクチにふける。金がなくなるとタタキやタカリをやり出す。一人一人では何もできないが集団で悪業をやりだすので、いつのまにか世間から暴力団という名がつけられた。(下略)

戦後の世相を反映した内容ですが、「戦果アギャー」に従事した命知らずの若者集団のトップに君臨していたという、とても善良な市民とは思えない経歴の持ち主に改めてびっくりさせられます。ちなみにこの事件は当時の世間をだいぶお騒がせしたようで、その後『うるま新報』では3回にわたって『医師K.Tの投稿』として何故女中さんはショック死したのかについての記事を掲載します。

上記引用の注目は、「いつのまにか世間から暴力団という名がつけられた」の記述で、これは琉球・沖縄の歴史始まって以来初の組織暴力の誕生を意味します。琉球王国時代はあまりにも貧しすぎて民間に暴力組織が誕生せず、大日本帝国時代も不良が集団化して組織を作るまでには至りませんでした。もしかすると喜舎場朝信さんは「沖縄ヤクザの元祖」となる運命を背負って生れてきたのかもしれません(終わり)。

【おまけ】女中殺し事件から10数年後、喜舎場さんを善良な市民として「救う会」を結成したコザ市(当時)の議員さんの記事を再送します(1963年2月15日付、琉球新報)。「私たちは彼の人となりをよく知っており…」のコメントがじわじわきます。

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