ソ連の裏と表 ⑺ – 不思議な監房の解放感 – 自分の煙草を吸って他人に礼をいう

ソ連には監獄の種類が三つある。普通の都市には二種の監獄が必ずある。内務省の監獄と保安省の監獄がそれである。もう一つは原語でペレスイルナヤ、チユルマという。通訳はないが私達はそれを中継監獄と呼んでいた。これは各都市にはないが大きな都市で交通の便のよい所におかれてある。幸か不幸か私は拘留間に各所とも十分しみじみとその情緒を味う機会があった。ソ連の監獄についてわずかな紙面ですべてを言いつくすことは出来ない。

ソ連の監獄はシャバと非常に近いつながりがあり、その数も信じられない程多い。内務省監獄というのは一般刑事犯を収容するところで、その殆んどが未決監である。

どの監獄も毎日新入のお客さんが多いので、投獄第一日は検疫室に新入だけが収容される。そこは一晩限りなので、寝台も作られてないコンクリートの床の上に、定員はないから入りのよい日と悪い日では違うが、とにかくすごく混雑するところである。廊下で厳密な身体検査が行われ、金属製のものはボタンといわず、ホックといわずみな取り上げられる。革帯は勿論、どんな小さなヒモでも禁止である。煙草は持入れを許される。新米は幾らか煙草を持っているから監房内ではやたらに煙草をふかす。足のふみ場もない位の混雑の中で、只さえ人〔息〕で重くるしい空気なのに、モウモウとくすぶる臭いマホルカの煙が逃げ場もなく部屋一杯くすぶっているのには閉口する。

高い所に二重のガラス窓が付いてはいるが、固く閉まっていて喚起の為にわずかに廿糎四角の小窓が半開きになっているが何の足しにもならない。中ではかつての社会的な地位も、権力も何の価値もない、お互い今は同じ運命に身をまかした人同志として身の上話しや、うわさ話で一夜殆んど寝ない。ソ連では監獄に入ってはじめて或る種の解放を感ずるらしい。夜中に入浴と衣類の熱気消毒が行〔わ〕れる。こうして騒音の中に寝られぬ一夜を明かして朝になると、一人々々呼び出されて、決められた監房に送られていく。監房は大部屋と独房があって、特に重罪或は悪質と見做された者は独房に送られる。大部屋にも大小色々ある。大きい監房は四十名、小さいので十名定員であるが、大てい定員倍の人員が常に収容されている。丁度、日本の戸のない押入れ式に二段の板を監房のグルリに回して、すし詰めにして寝るが、とても板の間などには全部は寝られない。新米やジンブンなしはいつ迄もコンクリート床の上でゴロ寝である。

毛布の一枚もないから着たままである。ソ連の監獄には獄衣というのはない。自分で着て来たままが財である。だから監房内でも強奪ゆすりが行われ、バクチで着物をハギ取るのも慣習となっている。私がはじめてハバロフスク監獄に入った時、監房の扉が閉まると四、五人の半裸の若者達が私を取りまいて、私の小さな財袋を取り上げ、一人は私の体中を検査しはじめた。よたもの連中である。監房内には他に数十名の人達が互に体をすり寄せ合せて、足を立ててうずくまっていたが、立〔と〕うともしないで私の方を見ていた。新米が入って来るときは、タバコ目あてに検査をするのだが、針、鉛筆、紙などがうまく持込まれると非常に喜ぶ。私は入獄前に物品をタバコと交換して袋一杯つめ込んだもを持って入って来たのだが、袋ごとあずかっておくといって取り上げられて了った。親分が同室の者に一ぷく分ずつつまんで分配してやって、あとは自分のそばに置いて人をよせ付けない。私に対しては「吸いたい時は何時でも言って来い、お前には好きな時吸わしてやる」と、いったのには全く驚いた。何時の間にか所有権が移って了った。私はその煙草を貰う度に有難うと、いちいちお礼をいって吸っ〔て〕いった。(1957年5月6日付沖縄タイムス夕刊4面)

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