6年ほど前に「突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – 当間主席やらかす」と題し、プロレス興行に熱狂した琉球住民の様子を紹介しましたが、ちなみにその後テレビの普及などでプロレスは(当時の沖縄社会で)幅広い人気を博することになります。
興味深いのがプロレスというジャンルが当時の高齢者たちに絶大な支持を得、しかもオバーたちが熱狂した点です。実はこの話は何度か耳にしたことはありますが、先日の沖縄タイムスに(この件に絡んだ)面白い投稿が掲載されていました。全文を紹介しますので是非ご参照ください。
茶飲み話 / 母のプロレス観戦-〇〇〇〇〇(68)
テレビを購入したのは私が6歳、翌年に東京オリンピックを控えていた。
父は夜勤の警備員。母は早朝から豆作りをしていた。金曜日の夜、母は家事を早めに済ませ、テレビの前で縫い物をする。
9時前になると、縫い物に区切りをつける。母はプロレスの大ファンだ。特に力道山を桜栄する。取り組みはたいてい、日本側と対戦相手はアメリカだ。試合が始まると拳をにぎり
「たっ殺せ-」
と声を上げる。
「母ちゃん、怖いことを言わないで」「母親は沖縄戦で避難途中に亡くなった。父ちゃんの家族も沖縄戦で亡くなった。アメリカ‐が憎い」。母の形相が怖いと子ども心に思った。
力道山が死去したと分かった時、強いレスラーの死因を尋ねた。母は暴力団員にナイフで刺されたと答えた。強者が亡くなったことはショックだった。力道山は朝鮮半島の出身と聞く。39歳の若さだ。
たまに私もプロレスを見た。レフェリーの沖識名は元プロレスラー。与那原町出身でハワイに移住したことが分かった。
日本のレスラーが勝つと、拍手しながら喜ぶ。母の「たっ殺せー」はたたきつけろ、やっつけろの意味だと理解できた。
金曜日の夕方、叔父(母の弟)が家に寄った時だ。素早く夕食を調理、きょうだいでプロレス観戦した。教員の叔父も身を乗り出して日本人レスラーを応援する。叔父は第2次世界大戦で中国に出兵、無事帰還した。無言で応援していたのが印象深い。(那覇市)
なお、たっ殺せー=タックルセーであることはご存じかと思われますが、この記事からもアメリカ世時代の人たちがプロレスに熱狂していたことが伺えます。そして偶然ですが昭和50年の琉球新報にもプロレス観戦が大好きな100歳のオバーの話が掲載されていました。記事の一部ですが以下ご参照ください。
(前略)妹のカメさんは明治八年(一八七五)五月一日生まれ。子ども(男四人、女二人)にも恵まれ、長男の栄喜さん(八一)、孫の栄昌さん(六一)など “一族” に囲まれのんびりした毎日を送っている。孫の数二十一人までは覚えているが曽孫、やしゃご(玄孫)は何人になったか数えたこともないという。
若いころから胃腸が弱いというので食糧難の時代にウサさんだけはずっと米のごはんを食べた。牛乳屋を経営していたこともあって一日二回は牛乳を飲み、それが現在も続いている。悪かった胃腸も沖縄線の末期、疎開先でかずらやイモを食べているうちに丈夫になった。食事は三食一度も欠かしたことがない。記憶力もことばも驚くほどはっきりしている。「戦後もヤマトには四回行った。まだ見てないのは奈良だけ」と話し出したら止まらない。血色もよく「ここ数年おばあさんの身体の調子、生活ぶりもほとんど変わらない」と孫の栄昌さん。
アメリカおーえー(けんか)
といってテレビのレスリングが好きで、見せないと一日中きげんが悪いという。(昭和50年9月15日付琉球新報朝刊9面)
アメリカおーえーのセンスが実に秀逸ですが、ちなみにこのオバー
謝花昇さんの妹です。
元記事は非常にいい話なので下記リンクをご参照ください(終わり)。

