ソ連の裏と表 ⑽ – 走り続ける囚人列車 – 終着駅は墓場あるのみ

(十)南京虫のいる御殿 中継監獄は他の監獄よりは食物が若干よくなる。ここでも話は食物の事が主で夫々自分の行って来た監獄の食事のよしあしを比較し、次の行先を楽しみ(?)に語り乍ら日を送る。囚人に対して行く先は絶対に言わないが自分の行く先については囚人特有の感覚で感じ取る。

ソ連は南京虫の非常に多い國であるが特にこの中継監獄はひどい。ノボシビリスクでは天上から夜中になるとポタポタ音を立てて南京虫が落ちて来るのは驚いた。石灰で白く塗った壁も黒く見える位の南京虫だった。気の弱い者は大抵此処でノイローゼにかか〔っ〕てしまう。中継監獄の面白みは安定性のないところにある。毎日の出入がはげしい。此処では政治犯もコソ泥も一緒である。監獄によっては監房だけ別にする所もある。東から西へ、南から北へ送られてゆく囚人達がお互いに情報の交換をする場所ともなる。

囚人ではないが、或る期間指定強制移住をさせられる者も指定地までは官費で囚人並に此処では扱はれる。イルクーツクの監獄で十三位の可愛い男の子に伴れた六十位の老人に会った。人のよさ相なこの老人は子供の頭をなで乍ら「この子の兄が戰爭に行ってドイツの捕虜になり、終戦後西独側に残って帰国を希望しない、という理由で家族全部、嫁いで三年にもなるこの子の姉まで無理に夫と離されて、財は没収、七年間の強制移住でシベリアに送られて行くところですよ」と語っていた。吸いさしの短いタバコを指先で器用にもみ消して大事相に仕舞いこみながら語る老人の顔は淋し相であった。出発の時廊下に呼び出されて検査を待っている間一緒だったが、その子供がお母さんと姉さんだよと廊下の反対側に並んで矢張り検査の順番を待ってる女囚の一群を指さして私にささやいた。見れば老婆と若い娘が手を振って合図を送っていた。娘の腕にはまだ幼ない乳のみ児が抱かれていたのが哀れに見えて今でもあの時の光景が妙に私の脳裏から離れない。

ソ連では囚人を一定の場所に長くは置かない。一年、長くて二年たてば別に移動する。東から西へ南から北へ囚人列車は縦横に走り回る。そして中継監獄は常に繁昌する。地理に明るくなると逃亡の危険が増し、長く一緒にしておくと徒党を組んで暴動の機会を与えるからだという。中継監獄で或る期間、一週間乃至二週間の休養を与えて再び、囚人列車は走る。これを幾度か繰返して指定地の強制労働所に送り届けられる。

ウラル山脈の裾にあるスベルドロフスクの町は大陸をアジアとヨーロッパに分ける分岐点にあり地理的にも囚人集散の主要な地位を占めている。昔エカチエリングルグと呼んだ此の町はくしくも四十年前革命の当時、ロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ幼帝が一族もろとも共産党員の手に依って無残な死を遂げたといわれる歴史的な町でもある。私を乗せた列車が此の町に着いたのは夜に入ってからであった。トラックで送られる途中、町はずれまで来るとこうこうと電気の輝いた七階建の立派な御殿みたいな建物に目を見張って、ソ連にもこんな電飾があるのかとビックリしたことがあるが、それがスベルドロフスクの中継監獄であったのには更に驚いた。逃亡防止の為特に監獄は外側だけは明るくするのだということを知ったのはその時だった。しかしこの会見立派な御殿の監房にも矢張り南京虫は遠慮なく住んでいた。

故意か偶然かその付近には、病院学校、監獄その次が古い寺院と大きな建物が並んでいて、その向うが墓場となっている。「生れて育って、学校を出て、待っているのは監獄で、次は死んで墓場へ、とこれがソ連人の生涯さ」とさとり切った様に言っていた男の言葉に私はなるほどと感心した。(1957年5月9日付沖縄タイムス夕刊4面)

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