寄奈良原男爵書

今回は明治33(1900)年9月17日付琉球新報の無署名記事「寄奈良原男爵書」を紹介します。奈良原繁知事在任中(1892~1908)に掲載された知事評は実に珍しく、しかも論評が極めて冷静かつ的確であり、明治時代のジャーナリストのレベルの高さと社会における言論の自由度を伺える内容となっています。

ブログ主はこの論説の文章スタイルから、太田朝敷先生が執筆したと考えていますが、残念なことにこの論説は『太田朝敷選集』には掲載されていません。太田先生が執筆したと思われる他の無署名記事は掲載されているのですが、なぜこの記事は載せなかったのか。このあたりに現代沖縄歴史学における「大人の事情」を感じざるを得ないのは気のせいかと思いながら、原文をチェックしました。

残念ながら原文はところどころ文字欠けがありましたので、必要に応じてブログ主判断で亀甲括弧で補い、旧漢字と句読点を追加した文章を作成してみました。読者の皆様是非ご参照ください。

寄奈良原男爵書(旧漢字訂正・句読点追加)

奈良原男爵閣下〔は〕本県の人士にして閣下の真価を認識するもの極めて鮮〔なし〕。或は閣下を評して豁達(かったつ)となすものあり、或は粗豪となすものあり、或は大度(たいど)となすものあり、或は偏狭となすものあり、勇と云ひ怯と云ひ保守的と云ひ野心家と云ひ衆評紛々所謂十人十種にして十年の久しき曾て定評なし。思ふに閣下に謳歌する者必〔ず〕しも真ならず、閣下を非議する者また必〔ず〕しも実ならざるなり。我輩不肖なりと雖も、操觚の職に在り〔て〕県民の指導者を以て任ず。豈に一県の治安四十余万人民の福利と密接の関係ある閣下を冷眼に看過して可ならんや。我輩は閣下を知るに於て決して人後に落ちざるを信ず。一個の奈良原男爵としては我輩の観察或は徹底せざるものあらん。然れども沖縄県知事奈良原繁その人に就(つい)ては我輩決して人後に落ちざるを信ず。

本県置県以来既に二十有一年、その間長官の更迭するもの八人(内独りは仮県令)。而して置県当初より明治二十五年(=1892年)、即ち閣下赴任の時に至るまで十三年半に於て七人の長官短きは数月、長きも三箇年にして更迭す。唯(ひと)り閣下のみ既に九年の久しきに渉る。而して本県の治績を論ずる時は明らかに二大期に区画するを得〔る〕。仮りにこれを名づけて守旧期及び改革期とす。七長官在職の時代は通じて守旧期にして、閣下赴任以来初めて改革期に転ぜり。論者或は之を以て時勢の賜物となすものあり。然り時勢の転変もまたその誘因の一たるには相違なし。然れども我輩はこれを以て閣下の功を没する程酷ならざるのみならず、寧ろ時勢の転変を以て偶然の誘因となすもの意、即ち時勢転変の源力たる日清戦役なきも閣下の計画は成功したること疑ひなし。閣下の●や我輩長く忘却せざるべし。

世の閣下を評するや、その只閣下の一局部を知ってその全体を知らず、曰く奈良原知事は交際に長ぜり、曰く上下貴賤の区別なく誰に対しても懇意す事なり、曰く酒を借りて芋を掘るは乱暴なり、曰〔く〕鹿児島人を贔屓するは不公平なり、閣下に対する毀誉褒貶大凡(おおよそ)かくの如きの類に過ぎざるなり。閣下の交際に長ずる県治に於て何の裨益(ひえき)かある。閣下の上下貴賤を区別せざる県治に於て何の裨益かある。閣下の芋を掘〔る〕はこれ閣下の道楽と呉れば素より咎むるに足らざるなり。閣下の鹿児島人を贔屓するは公権を私せざる限りはこれまた人情の自然なり、寧ろ称揚すべきのみ。我輩が閣下に取る所のものは以上数者にあらずして、別に大なるものあり。一に曰く大体に通ずること、二に曰く中央に向って押がきくこと、三に曰く人を見るに敏なること、四に曰く体躯の老いて益々盛なるが如く精神に於てもなお進取の気象(=気性)に富めることこれなり。閣下は素より文明の政理に通ずるにあらず、また素より文明の治療に熟したるにあらず。然れども以上の長所あれば即ち過渡時代に於ける本県の良□●●たるに足る

抑も二十六七年までの中央政府の本県に対するの方針は何事も控目勝ちにして本県に関する問題が提出せらるれば只手を焼くを恐れマア々々暫くの一語を以て刎付けられたり。当時我輩は戯れに中央政府のマア〱主義と称したりき。このマア〱主義を破りて以て区制を実施せしめ、間切吏員の任命法を改正せしめ、加ふるに財政困難の中より退職吏員に対する所の涙金を子ダリ(ねだり)、土地整理を施行せしめたる等の如き閣下の勢力と押強き尽力とにあらざればその成功未だ知るべからざるものあり。人或は閣下の赴任以来高等官の更迭が余りに頻繁なるを以てその原因を閣下の人を容るゝの器局なきに帰するものあり。これ大なる謬見なり。閣下赴任以来年として高等官の更迭なきはなし。然れども多くは全く閣下の与り知らざる所なり。偶閣下の手を以て拝したるものは我輩寧ろ閣下の明に服す。

閣下年既に耳順(=数え年六十歳)に過ぎ、猶ほ手に書籍を絶たず。新聞雑誌の片言隻語に至るまで注目細視して尚心の所に逢へば即ち録して以て蓄積す。而してこれを見るに皆治世の大要を得たり。閣下を以て大体に過し且つ進取の気象に富めりとなすは爰に見る所あればなり。

頃来愛由生なるもの伊藤候に贈りたる書中、大隈伯を評して伯がその部下に向って否と言ひ能はぬを難ず。我輩竊かに閣下の性質を観察するに大隈伯と同一の弱点あるものゝ如し。而して大隈伯は冷酷に近くして閣下は多涙多感なり。故にこの弱点より生ずる所の失策あらば閣下の失策は大隈伯の如き者より甚しきものあらん。閣下が処置したる所の事件にして開墾事件の如き埋地事件の如き偏頗と難するものあれども、該処置にして果して偏頗の処置ありしとせば、是れ全く俗に云ふ心にもなき罪にして多涙多感の致す所なり。然れども弱点は即ち弱点なれば、我輩は国家の為め閣下がこの弱点を矯正するに勉められんことを希望す。

「あるときはありのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しからまし」、是れ人情多く免がれざるの弱点なり。閣下在職既に九年、人民馴るるに随つて所謂”ありのすさび”に憎く思ふものもあらん。閣下が洒々落々容易く人に接するが為め、只馴れ易しきも知て恋しきを知らず、随つて閣下の功績を見る能はざるものもあらん。兎に角我輩は県下の為め閣下が今少しく沈重に、今少しく冷静に、今少しく果断に、今少しく勿体ぶられんことを切望す。秋夜寒燈の下、平生の所思を陳ね敢て盛威を冒瀆す、多罪々々。(明治33年9月17日付琉球新報2面)

寄奈良原男爵書(原文)

奈良原男爵閣下□本縣の人士にして閣下の眞價を認識するもの極めて鮮矣或は閣下を評して豁達となすものあり或は粗豪となすものあり或は大度となすものあり或は偏狭となすものあり勇と云ひ怯と云ひ保守的と云ひ野心家と云ひ衆評紛々所謂十人十種にして十年の久しき曾て定評なし思ふに閣下に謳歌する者必しも眞ならす閣下を非議する者亦必しも實ならざる也我輩不肖なりと雖も操觚の職に在り縣民の指導者を以て任ず豈に一縣の治安四十餘万人民の福利と密接の関係ある閣下を冷眼に看過して可ならんや我輩は閣下を知るに於て決して人後に落ちざるを信す一個の奈良原男爵としては我輩の觀察眼或は徹底せざるものあらん然れども沖繩縣知事奈良原繁其人に就ては我輩決して人後に落ちさるを信す

本縣置縣以來旣に二十有一年其間長官の更迭するもの八人(内一人は假縣令)而して置縣當初より明治廿五年即ち閣下〔赴〕任の時に至るまで十三年半に於て七人の長官短きは數月長きも三〔箇〕年にして更迭す唯り閣下のみ旣に九年の久しきに渉る而して本縣の治績を論ずる時は明らかに二大期に區画するを得仮りに之を名つけて守舊期及ひ改〔革〕期とす七長官在職の時代は通して守舊期にして閣下赴任以来初めて改〔革〕期に轉せり論者或は之を以て時㔟の賜となすものあり然り時㔟の轉變も亦た其誘因の一たるには相違なし然れども我輩は之を以て閣下の功を沒する程酷ならさるのみならず寧ろ時㔟の轉變を以て〔偶然〕の誘因となすもの意即ち時㔟轉變の源力たる日淸戰〔役〕なきも閣下の〔計畫〕は成功したること疑ひなし閣下の●や我輩長く忘却せざるへし

世の閣下を評するや其只閣下の一局部を〔知〕つて其全体を知らす曰く奈良原知事は交際に長せり曰く上下貴賤の區別なく誰に對しても懇意す事なり曰く酒を借りて芋を掘るは乱暴なり曰鹿兒島人を贔屓するは不公平なり閣下に對する毀誉褒貶大凡斯の如きの類に過ぎざるなり閣下の交際に長する縣治に於て何の裨益かある閣下の上下貴賤を區別せざる縣治に於て何の裨益かある閣下の芋を掘は是れ閣下の道樂と呉れは素より咎むるに足らざるなり閣下の鹿兒島人を贔屓するは公權を私せさる限りは是れ亦人情の自然なり寧ろ〔稱〕揚すべきのみ我輩が閣下に取る所のものは〔以上〕數者にあらずして別に大なるものあり一に曰く大体に通すること二に曰く中央に向つて押がきくこと三に曰く人を見るに敏なること四に曰く体〔躯〕の老て益々〔盛〕なるか如く精神に於ても猶ほ進取の氣象に富めること是れ也閣下素より文明の政〔理〕に通する〔に〕あらず又素より文明の治〔療〕に熟したるにあらす然れ〔ど〕も以上の長所あれは即ち過渡時代に於ける本縣の良□●●たるに足る矣

抑も二十六七年〔ま〕での中央政府の本縣に對するの方針は何事も控目勝〔ち〕にして本縣に關する問題か提出せらるれは只手を燒〔く〕を恐れマア々々暫くの一語を以て刎付られたり當〔時〕我輩は戲にマア〱主義と稱したりき〔この〕マア〱主義を破りて以て區制を實施せしめ間切吏〔員〕の任命法を改正せしめ加ふるに財政困難の中より退〔職〕吏員に對する所の涙金を子ダリ土地整理を施行せしめたる等の如き閣下の㔟力と押强き尽力とにあらされば其成功未た知るべからさるものあり人或は閣下の赴任以來高等官の更迭が餘りに頻繫なるを以て其原因を閣下の人を容るゝの器局なきに歸するものあり是れ大なる謬見なり閣下赴任以來年として高等官の更迭なきはなし然れども多くは全く閣下の與り知らさる所なり偶閣下の手を以て排したるものは我輩寧ろ閣下の明に服す

閣下年旣に耳順に過き猶ほ手に書籍を絕たず新聞雜誌の片言隻語に至るまて注目細視し〔尚〕心の所に逢へは即ち錄して以て蓄積す而して之を見るに皆治世の大要を得たり閣下を以て大体に過し且つ進取の氣象に富めりとなすは爰に見る所あれはなり

頃來愛由生なるもの伊藤候に贈りたる書中大隈伯を評して伯か其部下に向つて否と言ひ能はぬを難す我輩竊かに閣下の性質を觀察するに大隈伯と同一の弱點あるものゝ如し而して大隈伯は冷酷に近くして閣下は多涙多感なり故に此弱點より生する所の失策あらは閣下の失策は大隈伯の如き者より甚しきものあらん閣下か處置したる所の事件にして開墾事件の如き埋地事件の如き偏頗と難するものあれども該處置にして果して偏頗の處置ありしとせは是れ全く俗に云ふ心にもなき罪にして多涙多感の致す所也然れとも弱點は即ち弱點なれば我輩は國家の爲め閣下か其弱點を矯正するに勉められんことを希望す

「あるときはありのすさひに憎かりきなくてそ人は戀しからまし」是れ人情の多く免かれさるの弱點なり閣下在職旣に九年人民馴るゝに随つて所謂ありのすさひに憎く思ふものもあらん閣下か酒々落々容易く人に接するか爲め只馴れ易しきを知て戀しきを知らす随つて閣下の功績を見る能はさるものもあらん兎に角我輩は縣下の爲め閣下か今少しく沈重に今少しく冷靜に今少しく果断に今少しく勿体ぶられんことを切望す秋夜寒燈の下平生の所思を陳ね敢て盛威を冒瀆す多罪々々

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