史料 又吉康和氏の「自治尚早論」

今回は又吉康和(またよし・こうわ 1887~1953)氏の「自治尚早論」の全文を掲載します。先ず又吉氏のプロフィールを『沖縄大百科事典』から抜粋しますのでご参照下さい。

ジャーナリスト、沖縄民政府初代副知事。泊村(現那覇市)生まれ。沖縄県立第一中学校を卒業後、愛知医学専門学校に進んだが、中退して早稲田大学に学ぶ。1915年(大正4)帰郷して『琉球新報』記者となり、19年には同社編集局長となり。同年8月太田朝敷に従って『沖縄時事新報』の設立に参画、太田社長のもとで編集局長を務めた。29年(昭和4)太田が琉球新報社長に復帰したとき主筆、39年、太田の急逝により同年社長。41年、一県一紙への統合で『沖縄新報』の常任監査役となった。戦後派沖縄諮詢会委員(総務部長)、ついで沖縄民政府副知事となった。52年4月には『琉球新報』の社長となってその基盤を築き、ついで那覇市長を一期務めた。沖縄文化をこよなく愛するとともに、戦前戦後を通じ沖縄政界のご意見番だった。53年9月急逝、享年66歳〈富川盛秀〉

高嶺朝光著 – 『新聞五十年』には琉球新報の内紛によって、大正8年に太田朝敷先生とともに又吉康和さんもいっしょに琉球新報を退社して『沖縄時事日報』を創刊に参画、その後沖縄教育会の機関紙『沖縄教育』の編集に携わっていた件の記載がありました。後に沖縄民政府の知事となる志喜屋孝信さんとはこのとき知り合いになったのかもしれません。

近代沖縄の歴史において又吉さんの果たした役割は無視できないものがあります。最大の業績は昭和4年に琉球新報を尚順男爵から買収して、太田朝敷先生を社長として呼び戻したことです。その結果歴史的名著である『沖縄県政五十年』は誕生しました。

もう一つの実績は、沖縄民政府時代に沖縄議会の議員として瀬長亀次郎さんを抜てきしたことです。これが瀬長さんの政界デビューになります。当間重剛氏は回想録に次のように記載しています。

軍政府は46年のはじめから5月ごろにかけて一連の行政機構整備の手を打った。まず元市町村の再任命と知事の選任、そして諮詢会(しじゅんかい)から沖縄民政府へ、さらにその諮問機関として沖縄民政議会の組織のため元県会議員の任命となった。民政議会をつくるため、軍政府はさし当って元県外議員を任命した。戦争で死亡した者もいて、そのために補充議員が生まれたがこうしてでき上がった議員たちは次のとおりであった(中略)

当時、軍任命で補充議員になった人たちは、いずれも諮詢委の実力者で、のちに副知事になった又吉総務部長の息のかかった連中であるというウワサがあった。ことの真偽のほどは知らぬが、顔ぶれを見ても又吉康和氏と親交のあった人たちばかりだから、或はそうだったかもしれない。瀬長亀次郎君は、あとで又吉君とは激しく対立するようになったが、あの頃まではさかんに又吉氏のところに出入りし、信任もあつかった。瀬長君が又吉氏の口添えで議員になったとすれば、春秋の筆法をもって言えば、瀬長に政治的飛躍の機をあたえた人は、実に又吉康和氏であったといえよう。

今回紹介する「自治尚早論」は昭和21(1946)年3月8日の諮詢会の会議録に記載された内容になります。併せて嘉陽安春著 – 『沖縄民政府』に掲載された内容も掲載します。この会議では又吉さんは新設する沖縄議会の議員は何故民選ではなく(米軍政府の)任命であるかの理由を説明しています。ブログ主は当時の現実を正確に把握して持論を述べた又吉さんの慧眼に感動すら覚えました。読者のみなさん、是非ご参照ください。

沖縄県公文書館 – 琉球政府以前・沖縄諮詢会・沖縄民政府の会議録から抜粋

三月八日(金)午後一時

出席 志喜屋、又吉、松岡、仲村、比嘉、前門、大宜見、護得久、平田、糸数、安谷屋、仲宗根、山城、當山の諸委員

病欠 知花委員

協議事項

又吉委員 何故に選挙せずして任命するかの理由として、混乱の現在であるからである、其理由を朗読します

行政上の暫定的措置、行政上の現状批判

一、沖縄人の間には新社会建設の意欲逞しい(たくましい)ものありと認められるが第一人間らしい社会の秩序が出来て居ないので、それを組織化し、系統化するには尚相当の日時を要す。

二、行政上の指導原理として民主主義精神を一般人民が決定的に把握して居ないため所謂専門政治屋の策謀により民主主義が変質して少数策謀家の餌になる惧れ(おそれ)がある。

三、民主主義によって人民の活力を促進し、生産を高めることは最も肝腎である、若し民主主義による自治制を施行するならば其混乱と無規律を自律すべき組織として政党がなければならぬ。

四、自然発生的の生活意欲が政党にまで昂揚され而して沖縄人に適する政治目標(政策)を意識化させるためには言論の自由(現在其の自由なし)が必要であり、言論の自由によって政党の取捨選択をさせねばならぬ。

五、前項(四)なくして自治制を急がんか(急ぐならば)、官僚的自治制 – 天下り式自治制が施行され、そして其れは戦前の日本行政の再生産に過ぎないのは火を見るより瞭である。

六、今日の情勢下に於ては「自治制」とは無規律の民衆に対し「自分自身」を「自分自身」で政治することだと「無責任な政治家」をして放言せしめ民衆に煽動する結果、社会をして益々混乱に陥入らすことになる。

七、これは東洋流の考え方かも知れぬが – この過渡期に於ては政治家は民主主義の潮流と人民の要求 – 衣食住に対する極めて原始的な欲望との間に挟まるる緩衝地帯に立ちて苦しむだけの良心的度胸がなければならぬ。

以上自治制の尚早理を述べた(中略)。

※沖縄公文書館公開の資料画像は下記参照

嘉陽安春著- 『沖縄民政府』より抜粋

※前述した1~7項のほか8~10の項が追加記載されています。

(中略)なおまた、当間氏の回想記にある「自治尚早論」について言えば、それは又吉先生の「行政上の暫定措置」 – 行政上の現状批判 – と題する論策を指しているもとの察せられるので先生の根本精神を理解するため、以下、煩をいとわず、その全文を御紹介することに致します。

一、沖縄人の間には新社会建設の意欲逞しいものありと認められるが、第一人間らしい社会の秩序が出来ていないので、それを組織化し系統化するには尚相当の日時を要す。

二、行政上の指導原理としての民主主義精神を一般人民が決定的に把握しきれていないため、いわゆる専門政治屋の策謀により民主主義が変質して、少数策謀家の餌になる惧れ(おそれ)がある。

三、民主主義によって人民の活力を促進し、生産を高めることは最も肝腎である、若し民主主義による自治制を施行するなら、その混乱と無規律を自律すべき組織 – 政党がなければならぬ。

四、自然発生的な政策意欲が政党にまで昂揚され、而して沖縄人に適する政治目標(政策)を意識化させるためには、言論の自由(現在その自由なし)が必要であり、言論の自由によって政党の取捨選択をさせねばならぬ。

五、前項(四)なくして自治制を急がんか(急ぐならば)、官僚的自治制 – 天下り式自治制が施行され、そしてそれは戦争前の日本行政の再生産に過ぎないこと、火を見るより明らかである。

六、今日の情勢下に於て「自治制」とは、無規律の民衆に対して「自分自身」を「自分自身で」政治することだと、「無責任な政治家」をして放言せしめ、民衆を煽動する結果、社会をして益々混乱に陥らすことなる。

七、これは東洋流の考え方かも知れぬが、この過渡期に於ては、政治家は民主主義の潮流と人民の要求 – 衣食住に対する極めて原始的な欲望 – との間に狭まるる緩衝地帯に立ちて苦しむだけの良心的度胸がなければならぬ。

八、要するに沖縄に自治を施行することは時期尚早である。何となれば、言論、結社の自由と当時でなければとんでもない混乱を来すからである。

九、故に現状の政治組織を改善、整理して漸次自治制の強化を図り、諮詢会の計画をして官僚組織の再生産に終始せしめないよう意識化することに努力すべきである。

十、準備時代の今日、諮詢会委員各位に於ても自己批判をして、沖縄の将来に誤りなからんことを期すべきである。

思えば、又吉先生のこの論策は、ちょうど沖縄諮詢会が沖縄民政府に移行しようとするころ、すなわち沖縄県民が初めて経験する政府作り、国作りの試練の時代を迎えようとするとき、県民の指導者としての責任を負わされた諮詢委員の格遵すべき理想達成の道を諄々と説かれたもので、「時期尚早」という言葉の意味も、物には順序があり、漸を追って進もうという当然の道理を説かれたものに外ならなかったのですから、言葉尻をとらえて異を唱えるのでなければ、諮詢会の部長全体の空気として、それに「対立」する特別の理由がある筈もなく……(中略)これを要するに、又吉先生の論策の眼目は、戦前日本の自治は、自治と言っても、天下りの官僚自治であり、殊に沖縄はその弊害に苦しんだ。我々は戦前の沖縄県政に対する批判精神を失うことなく、真の自治の理想に向かって進まなければならない。しかし、また、アメリカは、民主主義の国と言っても、占領下にあっては、理想の自治達成は一朝一夕に出来るものではなく、その上、県民はいま、「衣食住に対する極めて原始的な欲望」の満足を求めて喘いでいる。この厳しい現実の下にあって、一歩一歩、再建の理想を達成するには、指導者の言動は極めて慎重でなければならないと言うにあったと思われるのであります。しかし、その何れにせよ、わが沖縄は、沖縄民政府時代五年間の間に、軍政府との緊密な信頼・協力の下で、着々と再建の基礎を築き、今日のこの奇跡的な沖縄繁栄の道を切り開いて来たのですから、今さら又吉先生の論稿に注釈を加えるまでもなく、事実によって先生の指導方針の正しさが証明されたものと言い得るのであります。

ところで、小生は同じ総務部内の調査課に同郷(那覇市泊)の国吉真哲氏がおられたお陰で、行政課勤務後間もなく、この論稿を読ませて戴き、なおこれに関連するいくつかの政治情報の資料も見せてもらいましたので、初めてこの論稿に接したときの印象は、今もなお極めて鮮やかですが、それを一言にして言えば、戦後沖縄の指導者として、日夜県政再建のために苦労しておられる又吉先生の深い思索と、いかにも明治人らしい気骨稜々たる文章の響きに深い感銘を受けたというのが当時の実感であります。

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