”戦果”に関する沖縄タイムスの見解

今回は”戦果”に関する沖縄マスコミの態度について紹介します。昭和24 年(1949年)7月17日付沖縄タイムスにおいて”戦果”に関する社説が掲載されていました。ブログ主が確認した限りでは、おそらく戦果に言及した初の社説です。原文は少し読み辛いところがあるので、ブログ主にて旧漢字を訂正、必要に応じて句読点などを追加しました。この社説は当時の沖縄タイムスの社会における”ステータス”を伺う上で極めて興味深い内容で纏められてます。読者の皆さん、是非ご参照ください。

【現代語訳】社説抜けきらぬ戦果的観念

盗賊が横行し、追剥が出没する、誠に物騒な世の中になったものである。戦前であれ程温順だった沖縄人全国でも犯罪件数が一番少く、強盗など殆どなかったといってもよかった沖縄人の何という変り方であろう。戦争直後から戦果という言葉が流行し、アメリカの物を掠めるのを戦果という戦争用語で巧みに表現したが何時の間にか沖縄人同志の物を盗るのも戦果の中に加えて他人の物を盗るのを一向恥としない風潮をつくった。生活の窮乏は道徳を踏みにじる。道徳を守っては食っていけないという悲痛なる社会現象は道徳を無視しなくとも何とか生活して行けるようになっても依然として改まらず、生活に倫理の脊骨をもたないという現実から吾々は戦争で蒙った精神的打撃の如何に深刻広汎なものであったかを今更ながら教えられる。戦争は犯罪を増発する。殊に敗戦国が道議の退廃から社会秩序の混乱を来たすことは歴史に徴するまでもなく目前の事実である。この現象は政治の貧困にも因るものではあるが更により多くの個々の家庭の生活態勢に原因を探求しなければならない。

即ち吾々の心の持ち方がなって居るかどうかを検討してみる必要があろう。沖縄の復興とか建設とかいろいろ言われるが各自が夫々の職場に於いて真剣な努力を払っているかどうかによって決定されるものであり、同様に各自の心の持ち方如何によって社会の道議は乱れ或は確立される。世相の険悪は生活苦の端的の現れであるが半面に於て道議の麻痺性が真面目に働くことを馬鹿々々しく思わせて社会秩序を攪乱するのも意としない行動者を出す事実を正視する必要があろう。今日の沖縄人で他人の道義心の低下を非難し得る資格のあるものが何人居るだろうか。上下の区別もなく戦果的観念から脱けきれない限り結局目糞が鼻糞を笑うことになる。強盗は警察力によって取締ることが出来るが強盗や窃盗の発生を防ぐのは吾々の精神によるほかに方法はない。従って世相の険悪は沖縄人全体の責任であることを回避する訳には行かないのである。

この社説から読み取れることが二つあります。ひとつは米国軍政府も物資集積所からの盗難被害に対して神経をとがらせていたことと、もうひとつは沖縄タイムスの社員たちが戦果の恩恵にあずかることなく生活を営んでいたであろうことです。

沖縄タイムス社は昭和23年(1948年)7月1日に創刊号を発刊していますので、もしかするとそれ以前は社員たちも”戦果”の恩恵を受けていたのかもしれません。戦果によって生活を支えていなかったということは、社説当時の沖縄タイムスの経営が軌道にのっていたことを意味しますが、その過程でどれほど米軍の施政を”よいしょ”してきたか想像に難くありません。

いわばうるま新報と同じく沖縄タイムスも、米軍の施政に協力する代償に情報発信の独占権を得、そして経営基盤を強化して社業の発展を試みたわけであって、この事実は強調してもしすぎることはありません。戦争に負けるということが何を意味するか、その悲哀をかみしめながら新聞を発行した当時の社員たちに心から同情しつつ今回の記事を終えます。


【原文】社説拔けきらぬ戰果的觀念 

强盗が横行し、追剥が出沒する、誠に物騷な世の中になつたものである、戰前あれ程慍順だつた沖繩人全國でも犯ざい件數が一番少く、强盗など殆どなかつたといつてもよかつた沖繩人の何という變り方であろう、戰爭直後から戰果という言葉が流行し、アメリカの物を掠めるのを戰果という戰爭用語で巧みに表現したが何時の間にか沖繩人同志の物を盗るのも戰果の中に加えて他人の物を盗るのを一向耻としない風潮をつくつた、生活の窮乏は道德を踏みにぢる、道德を守つてはつて行けないという悲痛なる社會現象は道德を無しなくとも何とか生活して行けるようになつても依然として改まらず、生活に倫理の脊骨をもたないという現實から吾々は戰爭で蒙つた精神的打擊の如何に深刻廣汎なものであつたかを今更ながら敎えられる、殊に敗戰國が道義のタイ廢から社會秩序の混亂を來たすことは歷史に徵するまでもなく目前の事實である、この現象は政治の貧困にも因るものではあるが更により多く個々の家庭の生活態勢に原因を探求しなければならない

卽ち吾々の心の持ち方がなつて居るかどうかを檢討してみる必要があろう沖繩の復興とか建設とかいろ〱言はれるが各自が夫々の職場に於いて眞劔な努力を拂つているかどうかによつて決定されるものであり、同様に各自の心の持ち方如何によつて社會の道義は亂れ或は確立される、世相の險惡は生活苦の端的の現はれであるが反面に於て道義の痲痺性が眞面目に働くことを馬鹿々々しく思はせて社會秩序を攪亂するのも意としない行動者を出す事實を正視する必要があろう、今日の沖繩人で他人の道義心の低下を非難し得る資格のあるものが何人居るだろうか上下の區別なく戰果的觀念から脫けきれない限り結局目糞が鼻糞を笑うことになる、强盗は警察力によつて取締まることが出來るが强盗や窃盗の發生を防ぐのは吾々精神によるほかに方法はない從つて世相の險惡は沖繩人全体の責任であることを回避する譯には行かないのである

 

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