歴史はこうやって “解釈” されるの実例

“屈辱の日”

毎年4月28日前後になると、上記パワーワードが県内マスコミに登場するようになります。いつごろからこのようなフレーズが使われるようになったかは不明ですが、今月28日の琉球新報1面〈金口木舌〉にまたまた香ばしいコラムが掲載されていましたので、試しに全文を書き写しました。

前回は当ブログで琉球新報の堕落について言及した記事をアップしましたが、今回は “歴史の解釈” はどのようにして捻じ曲げられるかの格好のサンプルとして紹介します。読者のみなさん、是非ご参照ください。

金口木舌 われわれにパラシュートはあるのか

詩人の長年演劇活動に携わってきた中里友豪さんの出演作に演劇集団「創造」の2014年公演「でいご村から」がある。沖縄戦で深い傷を負った沖縄本島北部の集落が舞台。中里さんは「創造」」の創設メンバーの一人だった

▽沖縄戦の記憶をどう継承するかを問う劇だった。学校長役を演じた中里さんは公演パンフレットで

「忘れていけないものを忘れていないか」

と記している。時代を向き合い、言葉を紡いだ詩人がなくなった

▽「琉大文学」同人で、宮森小学校ジェット機墜落事故を取材した作品「恐怖と血の代償」を残した。子どもの命を奪った墜落機から操縦者がパラシュートで脱出していた。詩人は悲痛な叫びを刻す。「われわれには、パラシュートはない!」

▽身の危険から逃れる術がない。宮森小の事故現場だけでなく、沖縄中が危機と隣り合わせにあった。米統治下で県民の多くが出口のない閉塞感にさいなまれていたのではないか

▽県民は「祖国」に光明を見出し、復帰を求めた。しかし、宮森小の自己で米軍を糾弾した詩人は「責任は本土政府にもある」と書くことを忘れなかった。

▽太平洋戦争の末期、日本は沖縄を捨て石にし、サンフランシスコ講和条約で米国に差し出した。「屈辱の日」の4・28から69年。今も続く閉塞感の中で県民は自問する。「われわれにパラシュートはあるのか」(令和3年4月28日付琉球新報1面)

上記コラムにおいて一部太字で強調した部分がありますが、どうやら琉球新報は過去に書いたことを忘れてしまったようです。あるいは誰も調べないとでもおもったのか、そのあたりの事情は不明ですが、参考までに昭和27(1952)年4月28日付琉球新報1面の〈金口木舌〉の全文も書き写しましたのでご参照ください。

金口木舌

対日平和条約はきょうの午後11時15分(米国時間午前9時15分)いよいよ発行を見るが今日の瞬間が占領最後の日でありまた歴史的新生の日でもある、1945年9月2日ミゾーリ号艦上における無条件降伏の日から6年8カ月にわたる米軍の占領行政が打切られ独立日本が誕生する

▽日本は西側自由諸国の一員として米国と最も深い友好関係に入るが天皇は26日にはリツジウエイ最高司令官を公式訪問し進駐以来7年、米国の日本に寄せられた好意に感謝の意を表しトルーマン大統領も29日の天皇誕生日には天皇あて公式メツセージを送る予定と外電は報じ政治的連携の上に更に両国民感情の結合にも努力を払つている

▽比嘉主席も祖国日本の独立を祝福する祝電を26日、吉田首相あてに送りまた沖縄教職員会でも同様祝意を表していることは単なる外交的事例でなく祖国を想い祖国の慶びを分つ国民的感情の現われであろう

▽1947年の対伊講話会議のときイタリアは弔旗を掲げたといわれるが日本の前途は多難とはいえ、明るい気持ちで講話を迎えることは大きな慶びである。沖縄もこの明るさを分ち復興に前進したい(昭和27年4月28日付琉球新報1面)

大雑把に説明すると、上記コラムは「われわれ琉球住民は日本人として祖国の国際社会への復帰を歓迎する」との論調でまとめられています。もちろん “屈辱” とかのネガティブな感情はなく、復興、そして復帰へ望みを抱く当時の人たちの想いが伝わってきます。

よく考えてみると、琉球新報がうるま新報から復元改題したのが昭和26(1951)年9月10日です。すなわちサンフランシスコ講和条約締結の日を記念して改題したのです。

4月28日が “屈辱の日” ならば、9月10日は琉球新報にとって “汚辱の日” ですか?

と嫌味一つ言いたくなりますが、サンフランシスコ講和条約という歴史的事実の解釈が同じ会社で69年前と今日ではここまで違うのはさすがに見過ごすわけにはいきません。そのあたりの琉球新報社のお家事情は不明ですが、今回の事例から

自社の歴史をよく知らない輩が、結果として歴史的事実の解釈を都合よく捻じ曲げる

という貴重な教訓を得たブログ主であります。(終わり)

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