史料 瀬長亀次郎氏の消息(昭和20年)

今回はブログ主が蒐集した昭和20(1945)年の瀬長亀次郎氏の消息を掲載します。今後新しい情報を確認次第、改めて追記することにしますが、現時点でブログ主がチェックしたところの瀬長さんの動きは大まかに纏めると、

・昭和20年ごろ沖縄農業会の総務課長に勤務していた。そのころの上司は平良辰雄さん。

・家族は昭和19(1944)年8月に宮崎に疎開した。この件は瀬長フミさんの回想録でも確認すみ。

・戦争が始まると両親をつれて北部に疎開、そこで栄養失調と悪質な歯槽膿漏にかかり死に掛ける。ただし当時羽地にあった野戦病院に収容され、一命を取り留める(このエピソードは有名)。

・野戦病院から当時田井等(たいら)にあった収容所に移動し、そこで農業会の上司であった平良辰雄さんと再開する。その後田井等市の市長選で瀬長さんは立候補した平良辰雄さんを支持、当選すると総務課長として平良市長を支えることになる。

になります。沖縄戦における北部避難中に九死に一生を得た瀬長さんが、収容所時代で戦前の沖縄農業会の上司と再開し、政治活動の第一歩を踏み出したのが昭和20年のころ、その経緯は平良辰雄さん他の回顧録からブログ主が抜粋しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。


・『ウルマ』新報は、沖縄島の日本守備軍が組織的に壊滅した約一ヵ月後、一九四五年七月二五日に創刊された。(『琉球新報百年史』〈一九九三年〉は七月二六日創刊としているが、『琉球新報八十年史』〈一九七三年〉は七月二五日創刊としており、一九四六年七月二六日の『うるま新報』も七月二五日創刊としている)。(不二出版 – うるま新報 – 米軍占領下の『うるま新報』より)

*うるま新報と瀬長亀次郎さんとの関係は昭和21(1946)以降からです。

・1942年(昭和17年)産業組合連合会(略称産連)に入会、産連は沖縄県産業会として改組され、瀬長は加工課長になり在任中、米軍の進行必至と判断した沖縄防衛の第32軍より発せられた中南部地区住民の北部への緊急疎開命令に応じて羽地に移動した。1945年(昭和20年)4月、米軍の上陸が開始され、瀬長は間もなく米軍の捕虜となり、地区隊長マカレス大尉の命令に従って田井等市の助役(市長は那覇市久米出身の池宮城永錫)に就任、されらに米軍の命により、糸満地区の地方総務になって赴任した(『戦争と平和の谷間から』浦崎康華著 340 -341㌻からの抜粋)。

*当時の難民収容所(辺土名、田井等、古知屋、宜野座、漢那、瀬高、大浦崎、胡座、前原、知念、平安座など)は市と称していた。

・(中略)戦局はいよいよ尻に火がつきはじめ、アメリカ軍の空襲は日に日に激しくなり、上陸は時間の問題となっていた。疎開のことが農業会でも話題になた。南部と北部に意見が分かれた。なかなか意見がまとまらないので平良会長が「これは命にかかわる大事な問題であるだけに、どちらか一方の意見に決めてしまうと、あとで問題を起こすことになる。各自の考えに従って行動するように」とその場を収拾した。

私は「軍隊と一緒だとかえって危ない。北部の山原が安全だ」という意見だったので両親を連れて北へ向かった。戦後になって、「瀬長さんの意見に従ってよかった、瀬長さんは命の恩人だ」と感謝してくれる人もいた。

北部の山奥は極度に食糧が不足していた。ひどい栄養失調のうえ悪質な歯槽膿漏にかかり、下あごまではれあがり、とうとう羽地真喜屋にあった米軍の野戦病院に収容される羽目になってしまった。

いま思うと私は運の強い男だと思う。野戦病院で米軍の手伝いをしていたのが七高時代の同期にあたる人だと判明したのである。薬もろくすっぽない時代に私は、彼のおかげで親切に治療してもらった。天皇のいわゆる玉音放送を聴いたのもこの野戦病院のベッドの上であった。「終わったか」というのがその時の実感だった。

戦争は終わったが地獄は続いていた。せっかく戦火を逃れたのに、人々は極度の栄養失調でつぎつぎに倒れていった。野火のように蔓延していたマラリヤなどの悪疫が死の恐怖と上と疲れにおしつぶされた人々の命を奪っていた。そのころ、私の母も栄養失調で倒れ、苦労つづきの人生を閉じた。母の争議は部落の人たちが総出でだしてくれた。その恩は、いまも忘れない。

やがて、人々は、当時カンパンと呼ばれた収容所に集められた。北部では辺土名、田井等、宜野座、中部では石川、前原、南部では知念などであった。私も病院を出て田井等市に移った。病後の静養が必要だった。

(中略)そんな中で1945年8月20日、米軍は沖縄本島を11地区に分け、各地区から住民代表を任命し、これを石川市に集めて「沖縄諮詢委員会」をつくり、委員長に志喜屋孝信氏をすえた。これは、軍政の実体を民主主義でおしかくそうとする米軍の最初の試みであった。一方、もう一つの装いはキャンプごとの「市長」「議員」選挙だった。

田井等市長選挙は、平良辰雄氏と比嘉善雄氏(県立二中の英語教師)の二人が立候補した。私は平良氏を応援し、初めて県民大衆の前で演説をした。沖縄での私の政治活動の第一歩であった。選挙の結果は平良氏が当選、私は総務課長となり農業会同様コンビを組むことになった。

公選市長とはいえ、その仕事は田井等市に集まっている住民をそれぞれの市町村に早くかえすこと、そのために米軍の車両をどう多く確保し、手配するかということだった。当時としては、もっとも緊急な仕事だったわけである。当然ながら仕事がはかどればはかどるほど田井等市の人口は減り、当時10万を数えていたのが7万、5万、4万へと減り、しだいに市の形態さえとれなくなった。そして「市長」の名も「地方総務」に変わり、われわれの仕事もなくなっていった(『瀬長亀次郎回想録』54~56㌻からの抜粋)。

・沖縄の戦争が終わった、というより日本は負けたと気づかされたころ、私(平良辰雄)は古知屋(宜野座村)で放浪にちかい生活をしていた。当時私の家族は田井等にあり、そこで戦前の農業会総務課長をしていた瀬長亀次郎君がめんどうをみていたようだが、瀬長君が、しきりに田井等にくるようにすすめるので、Nという二世のジープで古知屋を脱出するかのように抜け出し、当時沖縄では約五万という人口を誇っていた田井等に移動したわけである。

その前に、諮詢委員会を作るとかで、その相談に指名されたことがあるが、石川市に行く途中、漢那でトラックから降ろされ、「もう諮詢委のことは終わったから古知屋へ帰れ」と米軍からいわれ引きかえしたこともある。そのへんはよくわからない。だ、それはともかくして、田井等にいって間もなく、米軍の命令で市長選挙が行われることになり、比嘉善雄(現職、琉球セメント社)の対抗馬として打って出たことから、私の戦後の政治歴がはじまるのだ。

(中略)比嘉善雄氏の方には、志喜屋孝信さんをトップに沖縄諮詢会の面々が選挙参謀として登場、こっちの方には亀次郎君を筆頭に吉元栄真君(戦前は、大政翼賛会壮年団国頭支部長で、よく知っていた)、竹内和三郎君らがつくという布陣だった。

選挙の結果は、私が比嘉君を大きな票差でしりぞけて当選したが、仮小屋住い、演説会中心の「原始的」選挙運動の結果だったとはいっても、いま話した当時の空気が私の支持に巧を奏した、といまでも確信している(『戦後の政界裏面史』平良辰雄著 1~2㌻より抜粋)

(中略)伊良波のキャンプには民間人が約六千人ぐらいいたが、平良辰雄君(後の群島政府知事)ともここで会い、無事を喜び合って「マジューン・ドーヤー(一緒だぞ)」と言ったものだ。伊良波には六月の十九日から二十五日までいた。知っている人で米軍のCIC(諜報部)の手伝いをやっているのが「名前はかくせませんよ」というから「仕方がないだろう」と答えた。そしたら「ボクらの手伝いをしてくれませんか」という。手伝いの手伝いというわけだが「それはできない」と断ると「それなら労務班に回るよりほかしょうがないでしょう」といわれた。あの頃は瀬長亀次郎君も、さかんに又吉康和さんのところに出入りしていた。(『当間重剛回想録』65-66 ㌻からの抜粋)

・私は話を聞いて沖縄諮詢会のもようを知った。この日は八月十五日で、石川市には田井等、宜野座、石川、胡差、前原、知念から各地区代表百数十名が集まった。ここで米軍は集まった人たちに天皇の終戦の詔勅を聞かしたという。会議には海軍軍政府から副長官のムーレー大佐、政治部長モードック中佐、石川地区隊長ベンゼン少佐、二世通訳の丸元正二中尉らが出席し、志喜屋孝信氏が議長に選挙されて議事を進め、諮詢委員選考委員二十名を選んで、その選考委員が諮詢委員候補二十四名を選んで軍に推薦したという話を聞いた。

(中略)私は結局、どの会議にも顔を出さなかった。仲宗根源和氏が「翼賛関係者はなるべく出さないでくれ」と軍に進言したらしい。二十日の諮詢委員十五名が各地区代表の選挙によって決まり、二十九日には委員の分担もきまったが、その顔ぶれは次のとおりだった。

委員長 志喜屋孝信 商工部長 安谷屋正量

幹事 松岡政保 農務部長 比嘉永元

総務部長 又吉康和 保安部長 仲村兼信

法務部長 前上門昇 労務部長 知花高直

教育部長 山城篤男 財務部長 護得久朝章

文化部長 当山正堅 通信部長 平田嗣一

公衆衛生部長 大宜見朝計 水産部長 糸数昌保

社会事業部長 仲宗根源和

(中略)糸満簡易裁判所の判事(昭和21年ごろ)はヒマをもてあましていた。裁判といっても越境事件とかかっぱらいがほとんど。簡易裁判の管轄は「懲役三十日以下または二十円の罰金刑またはその併料」以下に限られているから天下の耳目を蠢動させるような事件はない。越境といえば平良辰雄君が田井等で市長をやっていたころ、その下で総務として働いていた瀬長亀次郎君が、よその地区へいくのに田井等の地区隊長から出域許可証がもらえず、目的地に着くと同時にそこの地区隊長に二日間金網にブチこまれた事件があった。瀬長君には出入域は今もって不自由のようだが、当時は彼も今ほど有名でもなかったので、人々は当たり前のことだ位にしか考えていなかったろう、別に事件にもならなかった。(『当間重剛回想録』74~75㌻からの抜粋)

 

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