突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – その4

今回は昭和38(1963)年の琉球新報社会面を中心に “突っ込まざるを得ない記事” の特集です。当時の記事を参照して痛感するのはアメリカ世時代の琉球住民と現代の沖縄県民との意識の違いです。

例えば酒乱、婦女暴行、少年非行、交通事故、そして伝染病(赤痢・コレラ・日本脳炎・梅毒など)の多発に水不足という現代では及びもつかないトラブルが多発しており、我が先輩方よくこんな混乱期を生き抜いたもんだと感心せざるを得ません。その中から(ほんの)一部を紹介します。読者の皆様是非ご参照ください。

①  読谷産

アメリカ世の時代の各地の盛り場には一定数の不良連中がたむろしていたようですが、その中から読谷のけしからん輩の記事です。昭和の新聞記事を参照すると、下記引用のような容赦ない表現が散見されます。

婦人から酒代せびる

嘉手納署 / 住居侵入、脅迫で逮捕

【嘉手納】嘉手納署は二十一日午後七時ごろ、住所不定、無職、平良太郎(三一)を住居侵入、脅迫現行犯でつかまえた。平良は読谷村喜納四八七、屋良朝栄さん方で「オレとケンカしようか」とおどしたもの。このほか同様手口で五件の脅迫があり「オレの妻になれ」と村内の婦人をおどし、酒代をまき上げたりして村内の売店を荒らし “読谷ダニ” と嫌われていた。同署は余罪を追及中。

引用:昭和38(1963)年4月23日付琉球新報(夕刊)

② 訃報

ある喜劇役者の死去を報じた記事ですが、一瞬固まってしまったのは気のせいでしょうか。

沖縄デブ死ぬ

十七日午後三時ごろ、那覇市ペリー区交差点南方五十㍍のあき地で、那覇市小禄五八二愛生寮内比嘉正光さん(六九)が、たおれているのを通行人が見つけて、沖縄赤十字病院に収容したが、午後三時半ごろ死んだ。

那覇署の調べでは死因は老衰。比嘉さんは、かつて沖縄デブの愛称で舞台で活躍した喜劇役者。

引用:昭和38(1963)年9月19日付琉球新報

③ 指名手配

「お前何をやらかした?」と突っ込まざるを得ない広告が掲載されていました。(昭和38(1963)年12月29日付の琉球新報社会面)

解雇通知 

写真の本人国吉正春こと本名国吉昌一郎は不都合におり十二月十日を以って本店との一切関係をたちましたので御通知致します。尚当人の住所を御存じの方は電話 8-2622 又は最寄の交番まで御知らせ下さい 

東和貿易テーラー

④ 不純交遊

成年と未成年に対しては “桃色遊戯” という表現は使わないようですが、とにかく怪しからんニュースです。

学校休み不純交遊

中部 / 女子中学生ら劇団追って

【コザ】長欠児童が劇団に入りびたりして、座員と不純交遊していた事実が明るみに出た。

コザ署が調べているが、交遊少女はかなりの数字にのぼるようでコザ署では、問題を重視、これらの小学校の補導にのりだすいっぽう、学校、父兄とタイアップして対策を講ずることになった。

コザ署少年係りではかねてからこの情報をつかみ、内偵していたやさき二十四日、父兄からの訴えでコザ市内の中学三年生の少女(一四)を補導、調べたところこの事実が明るみに出たもの。

この少女は現在嘉手納村で公演中の劇団員A(三五)と五月下旬ごろからこれまで交際していたという。

補導された少女の話で中学生で劇団に出入りしている少女は十数人にのぼり、座員と不純交遊しているものもかなりいるという。

西原村の中学校の女生徒は学校には行かず、この劇団の行く先々へ付き回っている。コザ署少年係りでは「いまのうちに対策を立てないとたいへんなことになる。関係者と話し合って、これら少女の補導と劇団への厳重な警告をすることになった。」

引用:昭和38(1963)年6月27日付琉球新報

⑤ 清々しいまでのクズ

説明不要、下記引用をご参照。

13歳の少女を食う

那覇署 50歳の易者が同居 / 児童福祉法違反で逮捕

那覇署は十六日午前十一時四十分ごろ那覇市辻町三の三七四、易者屋良朝達(五六)を児童福祉法違反の現行犯で逮捕した。屋良は妻子と別居し、那覇市辻町に部屋を借りて十三歳になる少女と同居していたもの。

この少女は島尻出身のA子(一三)で両親は子どもの教育に無関心のようでいまでは離婚しており、家庭環境はよくない。A子は一時はおじさんのところにあずけられて生活していたが毎日が暗い生活で学校にもほとんど行っていないようす。昨年の十一月ごろおじさんの家から飛び出して那覇市内を遊び回り那覇市波の上で易をしている屋良に手相を見せたところ “君の家に大変な心配ごとがあるね、私が出来ることならなんでも相談相手になってあげる” と見料の五十㌣もいらないからと、A子に五十㌣の小遣いをやった。

A子はこれですっかり屋良の同情にあまえ、毎日来るようになりことしの六月ごろから同居、夫婦きどりの生活を続けていた。

これが発覚したのは那覇署の少年係が他の事件を捜査中、屋良の近所の人から聞きこんだもの。

那覇署員の質問に、A子は「家には絶対に帰りたくない」といっており、屋良も

「この子と結婚するつもりです」

といっている。A子は午後四時ごろ児童相談所に引き渡された(中略)

引用:昭和38(1963)年7月17日付琉球新報

先輩たちのやらかしレベルの高さに脱帽しつつ、今回の記事を終えます。

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