シリーズ

尚泰候の決断 – 番外編

これまで「尚泰候の決断」と題して、真面目な歴史記事を4回に分けて配信しましたが、今回は番外編としてりうきうの王家・王族、そして上級士族の一大特徴である “二重思考” について言及します。

続きを読む

尚泰候の決断 その4

(続き)前回までに尚泰候の藩王時代の騒動についてやや詳しく説明しましたが、その出来事によって彼が決断できない “為政者” に成り下がった件を理解いただいた上で、明治29年(1896)の “決断” にいたった背景についてブログ主なりに言及します。

続きを読む

尚泰候の決断 その3

(続き)明治8年(1875)年9月7日(新暦)、明治政府、とくに来琉した松田道之との交渉過程で「事ここに至っては」の状況であると判断した藩王尚泰は、三司官に対し明治政府からの「御達書」を遵奉する旨を伝え、三司官側からも特に反対意見がなかったため、那覇へ使者を遣わす手はずを整えるよう命じます。

この日の騒動については「琉球見聞録」と「尚泰候実録」では一部記述が異なる部分はありますが、ブログ主なりにまとめてみると、

続きを読む

尚泰候の決断 その2

(続き)今回は尚泰候の決断について、予備知識として藩王時代の明治8年(1875)9月(新暦)の騒動について言及します。彼は有事の際に断固たる判断ができない為政者のイメージが強いのですが、実は例外的に “決断” を下したが故に酷い目に遭いかけた痛い過去があるのです。

その後の藩王は廃藩置県の明治12年(1879)まで毛利敬親の如く “そうせい候” の状態になってしまいますが、ブログ主はそれ故に明治29年(1896)の「断固たる決断」には強い違和感を覚えるのです。

続きを読む

尚泰候の決断 その1

先日ブログ主は過去記事をチェックした際に、史料の読み違いによる記述ミスに気が付いたので、その点についての説明と、それに関して “尚泰候の決断” と題した新たな記事を公開します。

続きを読む

皇室と沖縄社会とタブー

今月12日ごろ、「沖縄青年同盟」の活動家の訃報ニュースが県内2紙に掲載されていました。彼らが起こしたとされる「国会爆竹事件」など、彼らの活動そのものには「今更どうでもいい」との感しか湧きませんが、沖縄2紙がわざわざ活動家の訃報を、しかも追悼文(沖縄タイムス)まで掲載していた事実には強い興味を覚えました。

続きを読む

あいろむノート – 方言札(7)

(続き)6回にわたって掲載しました “あいろむノート – 方言札” シリーズも、今回のまとめを以て〆ますが、これまでの当ブログにおける説明にて「方言札」は日清・日露戦役後に新しい時代に適応すべく、教育現場から誕生した件についてご理解いただけたかと思われます。

続きを読む

あいろむノート – 方言札(5)

(続き)今回から2回にわけて、戦前と戦後の「方言札」に関する興味深い証言を紹介します。まず最初に、昭和16年(1941)ごろの国民学校(当時の小学校)での方言札の運用について、「那覇市史」に貴重な証言が掲載されていましたので、全文を書き写しました。

続きを読む

あいろむノート – 方言札(4)

(続き)今回は、現時点で蒐集した史料を基に、ブログ主なりに昭和15年(1940)1月の「方言論争」について説明します。というかこの案件、「はじめはニワトリのつもりが、だんだんアヒルになった。めまぐるしいので私自身とまどった」と吉田嗣延氏が証言している通り、単なる座談会での討論がマスコミ上に登場するや、一気に火がついた感があります。

続きを読む

あいろむノート – 方言札(3)

(続き)今回は方言札に絡んで、大雑把ではありますが、昭和15年(1940)1月に勃発した「方言論争」について言及します。ただし、ブログ主が蒐集した史料を基に、方言論争の流れについてのみ簡潔に説明します。

続きを読む

あいろむノート – 方言札(2)

(続き)前回の記事で、「方言札」は同化政策に基づく権力側からの押しつけ等ではなく、日清・日露戦役の結果、高等教育機関の生徒たちから始まった件について言及しました。ちなみにブログ主が注目したのは、外間先生が方言札に絡んで「軍隊生活の場で、移民先において、住民に日本語(普通語)を駆使することのできないウチナーンチュの言葉の悩み」との “りうきう・おきなわ近代史の盲点” について証言した件です。

続きを読む

あいろむノート – 方言札(1)

既にご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、先月18日に放送されたバラエティー番組で沖縄出身の俳優さん(二階堂ふみ)が「方言禁止記者会見」に挑戦する企画が行なわれました。

続きを読む

トルコ風呂とりうきう

そういえば去年の今頃、ブログ主は沖縄市美里一丁目(旧吉原地区)を訪れ、昭和45年(1970)の地図と現在の区画を比較検討した上で、吉原地区における特殊婦人の「総数の推定」を試みたことがあります。ただしスナックやカフェーの数があまりにも多すぎるため、途中で作業を投げだしてしまいましたが、Aサインバーも含めて売春に従事している琉球住民(女性)が推定1万人近くの当時の新聞報道に強い説得力を覚えました。

続きを読む

令和06年がはじまった(らしい)

既にご存じかと思われますが、令和06年は元日と2日に大災害・大事件が起きてしまいました。事のあまりの重大さに被災に遭われた方に対し語る言葉を持ち合わせていないブログ主ですが、とりあえず騒然とした世の中の雰囲気が一通り落ち着くまで、当運営ブログにて「おクスリ」や「凶悪犯罪」などの不謹慎ネタ、あるいは今回の大災害に関する政治的な投稿は控える方針で記事を配信していく予定です。

続きを読む