黒い芽 – 暴力追放総決起運動 / (7) 施設

コザ市山里区の西。郊外の松林は雑木にかこまれた金網の建て物がある。ここが琉球少年院。”黒い芽” たちが裁判所を経て、最後に行きつく教育の場である。職員は、教官、事務員を合わせて50人。108人の男子と女子20人を収容する。

金網と官舎、狭い中庭と教室 。ここの設備は、いたって乏しく、定員の2.4倍を超越する収容児童たちは、文字どおりに身動きできない窮屈さと、うつ積するエネルギーのやり場のなさに “動物扱い” だと怒る。しかし少年たちの顔は明るい。それは “おかあさんが面会で笑顔をみせてくれた” から。そして “父が元気でやっているか” と、久しぶりにを抱いてくれたからだという。

“黒い芽” たちは、みんな “青い芽” に立ちなおるために努力している。それには父と母の呼びかけが必要なのだ。

教育の場、少年院 / 愛だけが更生させる

琉球少年院は、61年1月1日発足して満2カ年を迎えた。少数の職員、乏しい施設ながら更生少年60人を送り出している。発足当初は20人足らずの職員でいきなり120人余りの少年をあずけられ「何から手をつけたらよいのか、とまどうばかりだった」と森山徳吉院長は感慨にひたる。24時間勤務が2日越しに回って来るし、休みもろくろくもらえなかったという。それもいまでは、昨年の立法院議員団の視察があってからは職員も50人にふえ、施設面もかなり向上し、ようやく労基法に定める最低限度の勤務が出来るようになった。

いま、この少年院は、ふろや運動場、寮舎、実科教室など、施設の拡充をいそいでいところだ。

少年院に送り込まれる “黒い芽” たちは、12歳から20歳までで、非行化の進んだ者たちだ。非行化の進んだ者とは、一般に、強盗、婦女暴行、軍布令違反、窃盗常習者など、悪質少年犯といわれるもののことだが、ここでは、悪質という表現はなく “非行化の進んだもの” と呼んでいる。なぜなら “黒い芽” たちに与えられた最後の道、更生の場であるからだ。

“黒い芽” たちは、年齢と身体状態、罪状によって初等科、中等科、特殊科、医療科の4つに分けられて教育が行われる。社会への適応性をつけるのが重点。このため、規則正しい生活を習慣づけるべく、起床から就寝までの1日を、スケジュールにしたがって毎日を繰り返す。整理せいとん、正しいことばづかい、友交、食事など、身じかなことから徹底的に矯正教育を行なうのである。

本土では、収容期間中に、理容師や運転手、美容師といろいろな技術を習得させ、免許まで与えられ実科教育は、相当の域まで進んでいるが、ここでは、そんな設備は皆無である。それで、指導も困難だし、更生した少年たちも自活力がないため再犯のおそれが多いという事実、退院したもののうち10%は再犯で、また舞いもどって来る。

入院して、3カ月ぐらいはどの少年も、たいてい反抗したり逃走を企てるが、そのうちに教官と気持ちがかようようになりおとなしくなる。不機嫌だった表情も消えて明るくなる。集団生活で秩序を体得して更生しているのである。しかしそれもほんの一部だ。

A少年は昨年春に優秀な成績で退院した。ところが、夏になると集団で婦女暴行をはたらきまた舞いもどって来た。Aは、はやく社会に出たいために真面目をよそおっていたのだ。

少年院の非行少年の統計をみると、両親のいたのが60%、両親のそろったのが40%、ということになっている。ここで気になるのが両親がいてこの道に入るということだ。分析してみると、両親はそろっていてもそのどっちかに精神的欠かんがあった。酒乱の父、みだらな母、子どもの立ち場を考えないで、怒ることしか知らないとか、家庭環境に大きな原因があるのだ。だから森山院長は “笑顔で面会に来て下さい” と訴える。

森山院長は、数日前、一昨年ここに収容されたことのある少年がりっぱに更生して、いまボリビアに移民するため訓練に励んでいるという知らせを受けとった。那覇市に住むM君(18)が明るいニュースの主。M君は中学1年のとき、盗みをはたらき、少年院に送られた。中流どころのサラリーマン家庭だが、両親の放任がいけなかった。たまたま、非行グループと交際するようになり、盗みで補導されたとき、父親は “一家の面よごし” とその後M君をのけものにした。周囲からも札つきと呼ばれ、ますます罪を重ねていった。M君は、こうして施設送りになった。

両親は “犯罪者” というレッテルをM君におしつけ、面会することは “世間にはじをさらすようなものだ” と面会にも来ない。”これではいけない” と森山院長は「お父さんがひと言、元気でがんばれと笑顔でいってやれば、M君はきっと元の少年にかえる。一度面会に来てほしい」と頼みの手紙を出した。父親が面会に来た。M君は、肩を抱いてもらった。父の笑っている顔をみた。長い間、待ち望んだ懐かしい笑い顔である。

M君はそれから間もなく退院、復学した。中学を卒業すると自動車修理工場に勤めた。家から自転車通勤した。これは、元の非行グループをさけるためだ。父親も自分の立ち場だけにこだわってM君を差別視していたことを反省した。M君が一生懸命に働く姿は周囲の人たちも見方を変えた。M君はいま、ボリビアへ移民する大きな夢を描いて、訓練に励んでいる。

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