あいろむノート – 方言札(2)

(続き)前回の記事で、「方言札」は同化政策に基づく権力側からの押しつけ等ではなく、日清・日露戦役の結果、高等教育機関の生徒たちから始まった件について言及しました。ちなみにブログ主が注目したのは、外間先生が方言札に絡んで「軍隊生活の場で、移民先において、住民に日本語(普通語)を駆使することのできないウチナーンチュの言葉の悩み」との “りうきう・おきなわ近代史の盲点” について証言した件です。

現代の沖縄県民は標準語によるコミュニケーションに不自由を感じていません。それ故に昭和の沖縄県人たちが抱えたコンプレックスについて “無頓着” なまま沖縄の昭和史を把握する傾向があります。県内はともかく、国内において標準語でスムーズに会話ができない辛さはやはり現代人には理解できない部分もありますが、試しに戦前の沖縄県人たちの(標準語会話における)失敗談を複数紹介しますので、是非ご参照ください。

まずは、松田和三郎氏(1853~1923)の話。彼は慶良間の鰹漁業を生み出したことで名高い人物ですが、そんな彼も当時の県人あるあるで普通語(=標準語)が大の苦手でした。彼は奈良原繁氏の県知事時代(1892~1908)の明治30年(1897)に村長(当時は間切長)に就任しますが、その際に教育視察の名目で奈良原知事が座間味を訪れます。その時のエピソードは以下ご参照ください。

奈良原は、その前に座間味間切を視察して松田や安里(積勲小学校校長)に会っている。小学校の阿嘉分校ができたので、これに出席かたがた教育事情を視察したのである。安里は当時、この島の女性たちのために夜間の、今日でいう婦人学級をつくっていた。奈良原が彼女たちに話かけると彼女たちは普通語(=標準語)でこたえた。晩、知事の歓迎会に、松田和三郎もへたなヤマト口で接待にこれつとめた。奈良原の盃に酒をつぎながら、「男酌はわるうございますか」と恐縮した。奈良原は男爵だからこの言い草に気を悪くした。翌日は式典である。安里の書いた式辞を松田が朗読したが、途中で難しい漢字につかえた。汗をかいて、懸命に巻紙をみつめていたが突然思いついて一段と大声をはりあげ「かたじけなうし」と読みくだいた。奈良原はこれにも感心し前夜の不機嫌を完全に解いた。松田和三郎には古武士的な風格があった。(下略)

引用:『沖縄の百年 第1巻 近代沖縄の人びと』新里金福・大城立裕共著 太平出版社136㌻より

もう一つは、昭和15年(1940)の方言論争における主要人物である吉田嗣延氏(1910~1989)の話。昭和60年4月3日の座談会での証言を紹介します。

(中略)これははっきりさせておくけど、方言を押えようとか撲滅しようという意志は全くない。これはほんとうです。というのは、我々、家に帰れば全部方言ですもの。うちの親は市会議員などをしているけれども、方言でしか話をしない。あらたまった時に、妙な標準語を使ってみんなに笑われた。例えば、(うちの親は)首里の園芸組合長だったが、本土から来ている県の若い農事指導員が首里市内に配る種ものを持って来て色々説明する。長々と説明する。どの組合にいくら、どの人にいくら……というふうに。そしたら、うちのオヤジは何と言ったと思う?

「いいかげんにせんか」

と言った。傍らに女学校にいっている娘がいて、「それはお父さん違うよ。びっくりさせているよー」。ヤマトからの指導員は口を開けてびっくりしている。「いいかげんにせんか」と言っているのは「テーゲーです」大体でいいよ、というつもりである。それをオヤジは日本語がわからんから、「いいかげんにせんか」と言った。

そういう状況ですから、方言撲滅をやったら僕は家に帰れない。方言の海にどっぷり浸かっている、特に首里では。

いかがでしょうか。もちろん現代の沖縄県民ならこんな失敗は犯しません。しかも明治時代の松田氏はともかく、大正から昭和に入ってもこの有様です。社会の上流階級ですらかくのごとし、ハッキリ言って大多数の小学校卒の沖縄県人の標準語コミュ力なんて説明不要のレベルなんです。

その点を踏まえた上で、次回は昭和15年(1940)1月に起こった方言論争について言及します(続く)。

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