琉球・沖縄の歴史上最も偉大な女性の思い出話

先日ブログ主は沖縄県立図書館において、昭和7(1932)年に琉球新報に掲載された『あの頃を語る』の記事を閲覧中に、ずっと探していた安村つる子女史(1881~1943の思い出話を見つけることができました。安村つる子(旧姓久場ツル)さんは明治14(1881)年首里にうまれ、沖縄初の女性教員として首里尋常高等小学校に勤務、琉球・沖縄の歴史上初めて学業によって身を立てた女性です。実はそれだけではなく、安村女史は

  • 琉球・沖縄の歴史上で、文字の読み書きができる(ことが確認された)最初の女性。
  • 琉球・沖縄の歴史上で、初めて高等教育を受けた女性。
  • 琉球・沖縄の歴史上で、初めて和装(したことが確認できる)最初の女性。
  • 琉球・沖縄の歴史上で、初めて自発的にハジチを落とした(ことが確認できる)最初の女性。

になります。つまり、歴史上初めて旧慣習を克服して新しい沖縄女性の道を切り開いた先駆者(パイオニア)なのです。それゆえブログ主は琉球・沖縄の歴史上最も偉大な人物の一人としてかならず安村女史の名前を挙げます。

戦前の沖縄県人はその業績が分かっていたのでしょうね。『あの頃を語る』に登場する人物を確認すると、最初は屋部憲通(通称屋部軍曹で知られる大英雄、空手家)、そして順番に高嶺朝教(第一回県費留学生)、比屋根栄(現存する只一人の御評定筆者)、伊是名朝睦(首里の長老)、尚順(男爵)、饒平名紀順(医生教習所出身)、玉城盛重(舞踏家)、神谷厚安(現存する山方筆者)、そして安村つる子女史の思い出話が掲載されています。当時の生きる伝説的な人物と同列に扱われている点に注目してください。

それが戦後になると彼女はきれいさっぱり忘れ去られてしまいます。一例としてブログ主が「沖縄の歴史上で始めて文字の読み書きができると確認された最初の女性は誰か?」と訪ねたところ、今まで一人も安村つる子女史の名前を挙げた人はいません。男性はともかく、現在の沖縄女性が彼女の存在を知らないのはあまりにもおかしい。だからブログ主は「現代の沖縄県における歴史認識の最大欠点は安村つる子女史の業績をスルーしていることだ」と断言して憚らないのです。

まぁ文句はこのあたりまでにして、読者の皆さん偉大なる安村つる子さんの思い出話をご参照ください。


 

・安村つる子女史の思出話

(琉球新報・昭和07.04.03

安村つる子女史は今は亡き夫良公氏との間に四女を挙げ目下首里市(当時)金城町に居往され子妹の敎育に専念されつゝある、首里第一小学校に奉職中なりしも今学期を機会に教育界を勇退されることになった。本県最初の女教員で女子教育界の元老である。今同女史を訪ねて当時の敎育状況の輪郭や挿話を描いてみる。

まあ大変なことになりましたね、私なんか何も分かりませんよ。何も取柄のない纏りのつかない話ですが、それでもよければ……。私が小学校に入学したのが日清戦役当時でして*、その時の学校は記念運動場にありまして小学校女子部といっていました。学友は源河さんの奥さんや嵩原さんの奥さん等です。小学校は尋常4年まででして高等科は2ヶ年でした。私たちは高等科の最初の入学者できた。

*安村つる子(旧姓久場ツル)さんは明治14(1881)年生まれ、小学校に6年(尋常4年、高等科2年)通っていることと、女子講習科は明治29(1896)年に設立され、安村女史はその一期生なので小学校就学年は明治23(1890)年ごろと思われる。

私が高等科に在学中に男子師範学校に女子講習科(明治29年)というものが設立されました。女子教員の養成の目的で募集されました。丁度募集人員が十名のものでして志願者が十八名位でした。試験*がありましてね、その試験がとても変なんですよ。二階の方で職員がズラリと並びまして一人一人呼び出されて珠算、筆算読本朗読など其他全学科に亘っていましたが十六の春を迎えたばかりの私が皆と一緒に入学許可になったことは実に夢の心持でした。今考えるとよくもあんな試験を受けたものだと思っています。

*試験は以前当ブログにおいて掲載済み 明治29年4月20日の女子講習科の入学試験

今なら中等学校に入学することに対しては別に好奇の目をみはることもありませんが私の入学当時は箱入娘礼賛時代でして女子教育に対する世人の見解も至って軽薄なものでした。十名の合格者中九名は他府県の方で私一人が県の者なので心細い事限りなかったものです。私一人が県人なのですから私は他の人々と思うように接し得なかった弱点もありましたのですが……でも段々慣れて来ました。服装も言葉も異なっているので先生も「あの人は異分子だ」というような見方を持っていたかと思われます。でも女ですから心には思っていたかも知れませんが言葉には絶対に出していませんでした。

十六の春でしたがウシンチーをして別に恥しいとも思いませんでした。そんな姿で毎日登校していました。学校の方でも別に何とも言いませんでした。それですから一緒にどこかへ出かける時も私は何だか皆々服装が異なるものですから外から見るとお供としか見えなかったのかもしれません。体操の時などは同師範部学校内に男女両方がいるものですから私たちは男生徒に体操を見られるのが嫌でして隔離されたところで見えないように体操をしました。私はウシンチーの上から帯を締めてやったものですが窮屈なものでした。殊に冬などワタジンの上から帯をしめてやるのですから余程不恰好な姿でしたでしょう。そうして隔離されていた体操が二十年位しては堂々と運動場にも出場しました。

男子との交際も絶対にさせなかったものです。男子禁制の敎育でした、同じ学校内にいるのですが自分の親類が男子部にいても全然分からないと云うようなものでした。何時に登校したとか何時に下校したとかチャンと印を押していたようにとても厳重なものでした。

(琉球新報・昭和07.04.06

学科は今と大した差はないが学習方法や形式が今とは異なっていまして余程滑稽なのもありました。図画の時間などは今じゃ鉛筆クレオン水彩画などもやっておりますが私の時代は専ら日本画でして墨絵でした。畳の上に紙が敷きましてそれへ筆を運んでいたものですよ。墨絵だと言いますと今は日本全国どんな学校を探しても年が年中筆で絵を描かせている学校はまあ無いのでしょうね。音楽の時間もですね、今じゃ楽譜の符号でやっていますが私たちは123でしたが今でもこの123式はやっていますけれどもドレミでなく私たちはヒフミと発音していました。習った唱歌も国家とか「金剛石を磨かずば」等でした。

女子講習科2ヶ年を卒業したのが十八の春(明治31年)でした、これから愈々教壇に立つかと思うと一種何とも云えない感慨にうたれましてね、琉装の儘(まま)ですからね。ずっと講習科2ヶ年を琉装で通して卒業して教壇に立っても矢張(やはり)琉装でした。琉装姿で教壇に!と云うと今じゃどんなに見ようとあせったところでね、見えるものじゃないですからね、オホホ……教壇に立ってみるどサア大変です。生徒を教えながらつくづく琉装の非時代的なることを自覚して十九の新学期始め(明治32年)に思い切って和装に変えました。振袖姿にすると、親類近所の人々から猛烈な非難罵詈酷評など乱れ飛ぶ有様です。

ひどかったですよ。「久場ぬチルーがヤマトンチューナタン。ウヌヒャーやなァやがてカラヂんウシチッチャーにウランダー小なへーさに。」*など姦(やがま)しい女たちや今は社会的知名の人々からさへ飛んだ非難を受けました。私たちより一級下で今女子師範の先生をしている武富ツルさんなどは教壇に立つ迄には琉装を廃していらっしゃいました。第一高女の方は最初の入学者から袴制度になっていまして琉装の女学生などはいませんでしたが髪はマーユーヰーだった様です。私たちの時代には子供たちが男女仲よく遊ぶと「カーラブッテー」などと言いはやされて非難されましたがね。おかしな話です。

*和訳 「久場のツルが大和人になった、あいつはもうやがて髪も切って、今度はオランダ人になるさ」(外間米子監修 -時代を彩った女たち 49㌻より参照)

こうして永い間教育畑にいますと私たちが経て来た跡を振り顧みて沖縄女学生の服装の変遷*も余程面白いものです。最初は琉装でして、それが私たちが始めて又最後です。その次に振袖姿になり更に変わって袴制度になり袴の色も海老茶でしたが三四年後女学校が設立されたので海老茶は不経済だからとの理由で黒の毛朱子袴に変わりましたものですから女学生は毛朱子袴で大道闊歩したものです。こうした珍現象も間もなく紫や赤海老茶毘海老茶となりまして現在では袴精度も頽れて颯爽たる洋服制度に変わるようになりまして、女学生諸嬢の顔色も明るくなったような気がしますよ。まあこんな風で私が琉装で教壇に立った時代は夢のような大昔の感じがします。

*服装の変遷は当ブログ参照 参照 琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと 挿話

このように服装の変遷と共に引込主義の沖縄女性が其陋習の殻を破って澎はいと寄する時代の波と共に敎育の理解もたかまってきたのは誠に喜ばしい現象です。」(終わり)。

【参考】昭和7年4月3日、琉球新報に掲載された安村つる子女史の記事。

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