裁判移送問題と中村議員の失踪

昭和41年(1966)7月5日、東京で起こった中村晄兆(なかむら・てるあき)立法院議員失踪事件の顛末について、当時立法院の議長を務めていた長嶺秋夫さんの回想録『私の歩んだ道』(昭和60年刊行)に事件の詳細が記載されていましたので掲載します。ブログ主が確認できた限り、この事件の詳細を記載しているのはほか昭和41年7月の琉球新報縮小版と、この回想録の2つだけです。

~裁判移送問題と中村議員の失踪~

先にも出たが、沖縄住民の自治権拡大要求に逆行するような裁判移送問題が持ち上がったのは1966年6月16日のことであった。琉球政府の裁判所で審理中だった「友利裁判」「サンマ裁判」と呼ばれた二つの訴訟事件を高等弁務官の命令で米民政府裁判所に移送した問題であり、その13日後、立法院は撤回要求を決議して、日本政府をはじめ関係方面にも善処を要望した。

ここで裁判移送問題にかかわる「友利裁判」と「サンマ裁判」とはどういうものであったかを説明しておきたい。

まず、米高等弁務官は、沖縄を統治するにあたっては行政、立法、司法の権限を持ち、これに基づいて布告や布令を発したのであるが、この高等弁務官の権限は米大統領行政命令に基づいて発生することが規定されていた。ところが、そのような法的関係において、友利、サンマ裁判は、高等弁務官の発する布告や布令が大統領行政命令に沿っているかいないか、あるいは違反していないかと問題を提起したのである。そして、このことを琉球政府の裁判所が審査したことから統治者と住民の自治権との鋭い対立になったわけである。そのため、「琉球政府裁判所には米民政府法令の妥当性や合法性を審査する権限はない」とする米民政府の態度が表明され、二つの裁判は米民政府裁判所で審理するということが決定され、6月16日、そのことが発表された。

そこで、これら二つの裁判の概要を説明しておかなければならない。

まず、「友利裁判」は、1965年11月の立法院選挙(宮古、第29区)で友利隆彪氏が最高点を得票したにもかかわらず米民政府が破廉恥罪があったとの指令を出したため、琉球政府中央選挙管理委員会が「友利氏は被選挙がないので当選は無効」と宣告したことに端を発した。これに対して友利氏は「自分には被選挙権がある」として巡回裁判所に提訴した結果、勝訴した。これを不服とした中央選管は琉球政府上訴裁判所に上告して争った。それが係争していた過程で米民政府は、高等弁務官布令に規定する“被選挙権”にかかわるとして、これを米民政府裁判所に取り上げて審理したことが問題化したものである。

次に、「サンマ裁判」は、1965年2月、「サンマから税金を取り立てるのは違法であり、これまでに課された(徴収した)税金は払い戻せ」と取り扱い業者が訴えた事件である。物品税法に関する高等弁務官布令の中の別表には、法令公布手続き上のミスであったろう、サンマについての税率がない。それが明記されていないのに、税金を取るとはどうしたことかということが訴えられたのである。これも琉球政府を相手どって争われたものであるが、こと高等弁務官布令と関連する訴訟だったため、米民政府裁判所に移せということになったわけである。しかし、住民側からすれば、司法の自治の立場からも、米民政府のとった措置は納得できるものではなかったし、世論の反響を呼んで政治問題化したのであった。

二つの裁判は、同時併行の形で米民政府裁判所で審理が続けられ、琉球上訴裁の仲松恵爽首席判事の進退問題まで起こったが、立法院は1966年6月21日、緊急本会議で高等弁務官あての「琉球上訴裁判所に対する訴訟移送命令に抗議し、その撤回を要求する決議」を全会一致で可決、ワトソン高等弁務官に手渡して善処を求めた。しかし、高等弁務官はこれを拒否した。そのため、立法院は同月29日、中村晄兆議員の提案によって「琉球上訴裁判所に対する訴訟事件移送命令の撤回並びに司法における自治の拡大を要求する決議案」を全会一致で可決した。そして、この決議を携えて7月3日、立法院から私と安里積千代、中村晄兆の三人が日本政府に訴えるため上京したのである。

立法院の代表が三人ということになったのには少しく理由があった。それというのも、代表を決めるのに与野党で意見が合わず、結局、議長の私に選任を一任されたのであるが、私は、与野党から法律に明るい人で一人ずつをと考えた。このことは、与野党で完全な話し合いがついたわけではないが、失礼ながら、上訴裁の仲松恵爽首席判事では弱いから、本土に適当な人がおれば力になってもらおうと考えていた。ちょうど、千葉県に沖縄出身の有能な判事がいるという情報を得ていたので、上京の際、訪ねてみようという腹づもりだった。そういう状況でわれわれ3人は上京したのである。

上京して真っ先に行ったのは法務省であった。それから佐藤首相にも訴え、各政党も回って3日目(07/05)の夜は山口喜久一郎衆議院議長の公邸に招かれ、要請を行った。それから中村議員が見えなくなって問題になったのである。4日目の朝(07/06)、安里議員と私は予定をこなすため宿泊先の第一ホテルのロビーで中村議員を待っていたが、中村議員は現れない。訪問することになっていた安井総務長官の会見時間は決まっている。「訪問先も決まっているし、時間もないから」と安里氏と二人で総理府へ出向いた。記者たちが「中村議員は」と言うので「立法院の用事でよそに行っている」と答えておいた。ところが、その一日中、中村議員は姿を見せなかったのである。

5日目(07/07)。また、同じロビーで待った。来ない。「困ったなあ」「どうしたのだろう」と言いながら、また安里氏と二人で出かけた。予定の訪問先はみんな回ったが、それでも帰ってこない。また記者たちから聞かれた。「相手もいることだし、用事で手間どっているのだろう」と言っておいた。6日目(07/08)。さすがに記者たちは不審がった。沖縄はもちろん、政府も国会も問題視している重要問題であり、それ以上の問題があるのかという勘ぐりだった。その日の夕方、われわれ二人は、安井総務長官の招きで紀尾井町の「福田家」という料亭にいた。そこまで総務長官からこのようなもてなしを受けたことはなかった。そこへまた記者団が訪ねてきた。「中村議員は昼はいなかったが、そこには同席しているのか」などといろいろやりとりがあったが、結局、いないということがわかり、記者団も「ただごとではない」と思ったようである。安井長官も心配して「一体どうなっているのかね、議長」と言うのだが、私は「わかりません」と答えるしかなかった。安里氏も同じであった。記者の中でこんなやりとりをしている間にも、玄関先では山野幸吉総理府特連局長と記者たちとの問答が続いていた「安里さんもいるでしょう。出て来て下さい」「要人がどこにいるのかわからないようでは困るではないですか」と突っ込んでくる。安井長官は心配して、すぐ警視庁へ電話を入れ、「困っているので君らも協力してくれ」と頼み込んだ。

「裁判移送命令撤回、沖縄の司法自治権拡大要請のため3日、長嶺立法院議長、安里社大党委員長とともに上京し、5日夜以来4日間も消息を絶っている中村晄兆立法院議員(36)=民主=について、総理府特連局の非公式の要請に基づき、警視庁では9日朝、長嶺議長から事情を聞いた。ライシャワー大使との会見にも現れなかったので長嶺議長、安里氏、山野特連局長は同日午後、警視庁の今竹保安局長を訪ねて事情を説明し捜査の協力を依頼、警視庁でも捜査に乗り出した。長嶺議長は9日夜帰任の予定だったが、捜査に協力するため帰任を2日間延長し、11日夜まで滞京する。一方、中村議員は5日、宿舎の第一ホテルを出て深夜、赤坂のナイトクラブ『コパカバーナ』で知人と飲食していたことが確認されているが、その後の消息は依然不明である」

―以上は、1966年7月9日付琉球新報夕刊の報道である。続いて翌10日の新聞は「中村議員の失踪以来5日間たったが、依然不明である。長嶺立法院議長の要請で、総理府特連局長を通じて警視庁に正式に捜索願いが出されたので、警視庁では防犯部の刑事10人を専従させて本格的な捜査を始めた」と報じた。

安井総務長官、山野特連局長と福田家で会って宿舎の第一ホテルに戻ると新聞記者もぞくぞくやって来る。翌日も朝からホテル詰めになり、陳情の予定は取り止めねばならなかった。朝から何百人の情報取りにおしかけられた。

「どこにいるのですか」

「わからない」

「わからないでは済まされないでしょう、議長」

また始まった。

「一緒に来て、どこへ行っているかわからないわけはないでしょう」

「何でも暴力団にやられたという話もありますが…」

小さいホテルの部屋に入り込んできて記者たちはいろんなことを言う。一日中こんな状態だが、こちらは何の手がかりもない。

中村議員が失踪してから3日目、私は沖縄の奥さんに連絡した。奥さんは「沖縄でも騒いでいますよ。彼はときどき2,3日、黙って見えなくなるときがあります。そのうち出てきますよ」ということだったが、やはり心配だったのだろう。翌日(7/9)、上京してきた。4日目の晩は、福島の奥さんの実家から「ニュースで聞いて心配していますが、どうなっているのでしょう」と問い合わせがあり、さらに、兵庫の宝塚にいるという姉さんからも「ご心配かけて済みません。どうなっているのでしょうか」との電話が入った。だが、私としては「わかりません」と言うほかなかった。

失踪してから5日目の10日、中村議員の秘書をしていた山川という青年から「いま先、中村先生から連絡があり、元気でいるので議長によろしくとのことでした」という電話があった。

「どこにいた?」

「聞いていません。何かギーギーという音と自動車の音が聞こえました」

私は暴力団にやられたのだと思った。道のそばの公衆電話ボックスに連れ出されて「お前、そこから電話しろ」とでも言われたのではないか。ギーギーとか自動車の音が聞こえたというから…。

その夜は、直接、本人から電話がかかってくるかも知れないと思って待っていた。そうしていると「○○社の社会部の者です…」「○○新聞ですが…」と報道陣からひっきりなしに電話がかかってきた。あまりの電話の多さに参って、ホテルに電話を止めてもらったが、半時間くらいしたらホテルの方も参って「どうしましょうか」と相談が来た。考えてみると、本人から電話がかかってこないとも限らない。ベッドのそばに電話器を置いての一晩中の電話の応対はきつかった。

「見つかった」との報告が警視庁にあったのは、失踪してから6日目、7月11日の昼前だった。警視庁から総務長官のところへ連絡が行き、総務長官から私に電話が来た。渋谷の並木橋歯科医院で休んでいるというので、すぐ飛んで行った。木造二階建ての医院で、入り口は待合室、二階が治療室になっていたが、その隣りの6畳ぐらいの間に、中村議員は口にマスクをして座っていた。

私は、一言も言わず、ビンタを張った。たまっていた怒りで言葉より先に手が出たのである。

「これは一体どういうことか。具合が悪いのなら、休んでいると一言でも言えなかったのか。警視庁も動いているし、総務長官も責任上大変だと言っている。どうするつもりか」。怒りの言葉がとめどなく口をついて出た。

彼は一言も発せず、じっとして私の怒りがおさまるのを待っていたようである。私は、ことのいきさつについては何も聞かなかった。彼は、用意してあった辞表を黙って差し出した。それをひったくるようにして受け取り、「私は、すぐに帰らなければならない」といって、その場を引き揚げた。その間、下では報道陣が詰めかけてワイワイガヤガヤ。とうとう靴のまま2階に上がってくる様子である。たまりかねた院長は「先生、大変です。階段がこわれそうですから下で会見して下さい」と叫び、私は降ろされた。待合室でもみくちゃになって記者団の質問に答えたあと、その足で羽田へ急いだ。

那覇に着いたら、空港にはほとんど全議員が姿を見せ、法曹界の真喜屋実男君や小堀啓介君らも来ていた。直ちに立法院で中村議員の問題についてみんなと相談した。その結果、明日にでも早速本会議を開き、正式に中村議員の辞表を受理することを決定した。

あとで耳にした話であるが、当間重剛氏には中村君から電話があったらしい。心配のあまり沖縄の様子が知りたかったのであろう。当間氏は「沖縄は大変なことになっている。君はもう帰ってこれないぞ。辞表を出しなさい」と注意したのではないかと思う。それで辞表をしたためてあったのではないか。

中村君はそれっきり帰って来なかったので真相は分からない。本当に胃をやられたのか、あるいは歯をやられたのか誰も聞いていないし、聞こうとする人もいない。しばらくしてまた新聞ダネになるような事件があったが、福岡で亡くなったようだ。

一緒に上京した安里氏は、中村議員がいなくなったので怒って「私はもう帰るよ」と言って、確か日程をあと1日くらい残して帰ってしまった。立法院で本会議を開く前だったか、「中村君から辞表を取っているのに私には何も言わない」と言われたので、「一緒に行ったあなたに話してからでないと公表はできない。まだ誰にも辞表を持っているとは言っていない」と説明したら、わかってもらった。中村議員の失踪は、沖縄の自治権拡大への要求が盛り上がってきたときだけに、沖縄の信用を失墜した事件だった。

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