西銘順治さんがやらかした「失言」のお話(重箱の隅発言)

Junji_Nishime

ここ数日、アメリカ世を生きた世代の回想録をいろいろ読み漁っているうちに、昭和43年(1968)の主席公選における西銘順治さんの歴史的なやらかし案件を見つけましたので、ゆるい話題として当ブログにて取り上げます。

昭和43年(1968)2月1日、アンガー高等弁務官が「大統領行政命令を改正し、11月に立法院議員選挙と同時に主席公選を実施する」と発表したことを受けて、沖縄自民党(当時)から那覇市長の西銘順治さんの擁立が正式に決定します。

ところが同年3月になると、琉球政府通産局を中心とした個人タクシー認可汚職事件が発覚、逮捕者が続出して沖縄自民党はおろか琉球政府の松岡主席まで窮地に陥ります。この事件は琉球・沖縄の歴史上最大級の汚職案件で、最終的には琉球政府前副主席の小渡三郎さんが逮捕、起訴されるという異例の事態になります(個人タクシー認可汚職事件の顛末は後日掲載します)。

そんな中主席選挙は10月21日に告示され、同日琉球新報主催の「主席選挙立会演説会」に両候補(屋良、西銘)が臨みます。その際に屋良朝苗候補から“黒い霧事件(個人タクシー認可汚職事件)”に関して「汚職政治の根幹は何か」と問われた西銘さんが壮絶にやらかしてしまいます。そのときの回答は以下参照。

「“黒い霧”は誠に申し訳ない。これがいいはずはない。しかし“黒い霧”はごく一部のことだ。これをつつくのは重箱の隅をつつくようなもので、そういう役目も必要だが、私たち(沖縄自民党)は重箱の隅をほじくるのではなく、重箱の中身に何を盛るかが大事だと考える。重箱の隅をほじくるのは野党にやってもらい、中身のもりつけは与党がやる」

ちなみにその後、革新側は各地の演説会でこの発言を取り上げ「汚職への反省が足りない」と攻撃します。(『戦後政治を生きて、西銘順治日記』琉球新報社刊行より抜粋)。この「重箱の隅発言」のおかげで保守陣営は選挙戦で劣勢を強いられて、最終的には西銘候補は負けてしまいます。しかも、那覇市長選挙でも沖縄自民党から擁立した古堅宗徳さんも落選し、保守陣営は散々な目にあってしまいます。

この選挙戦では「イモ・はだし論」という保守陣営の失態が有名ですが、それにトドメを指すかのような西銘さんの大方言にはビックリしました。当時の時代の風潮、特に汚職に対する保守陣営の観念を大事な選挙期間にポロッともらしてしまう予想の斜め上を行く大失態を西銘さんほどの傑物でもやらかしていたんだなと思いつつ今回記事にまとめました(終わり)。