資料 琉球王国時代の民家 その3

前回記事において、琉球王国時代の田舎百姓の民家(再現)をアップしました。古代から20世紀初頭まで、百姓階級の民家の作りがほとんど変わってなく、しかも一定期間権力者によって強要されていたことは余り知られていません。この事実は現代の歴史家にとって余程都合が悪いのでしょうか、歴史書で大きく取り上げることはありません。

琉球王府時代の敷地家屋の制限令は明治22年(1889年)に解除されます。その後裕福な農家を中心にして士族階級の間取りを真似した民家が農村にも普及します。『沖縄大百科事典』から民家の説明文および間取り図を掲載しますので参照ください。

〔屋敷配備〕 規模の違いはあるが、基本的には士族屋敷と大差はない。屋敷囲いは石垣や生垣。門は南面、門扉は設けない。門の近くにヒンプンを建て、門―ヒンプンー仏壇の中心は一直線に結ぶのが理想。庭の右側(東側)にアシャギ、左側(西側)に井戸、納屋と家畜小屋を連結した1棟を配置。母屋の前面は庭と呼ばれる多目的広場。高倉を配した民家もあったが豪農に限られる。北西隅にフール(豚便所)、母屋の背後にはアタイがある。

〔間取り〕 穴屋など粗末な民家では1戸1棟。北西隅に竈を設け台所とし、仏壇は北側壁に接して置いた。しだいに台所は別棟として独立、両軒にはクバの幹を利用した自然樋を設けて連結した。貫木屋になると田の字型間取りが現われ、やがて母屋はふつうは右側から一番座・二番座・裏座などと仕切られるようになる。一番座は床の間、二番座は仏壇を配し、裏座にはジール(地炉)を設けた。台所は茶の間・作業室にあてる板の間と、炊事場にあてる土間からなっており、土間には竈を据え、火の神を祠る。その後、母屋と台所を1棟にまとめた新しい間取りが生まれた。王府時代は身分に応じて規模が定められていた。

〔構造〕 穴屋は掘っ立て小屋、貫木屋は礎石の上に柱を建て足固め・貫・桁をくさびなどで締めた構造。王府時代、用材は厳しく制限された上(禁止木)、敷地家屋の制限令によって、百姓の瓦葺きは禁止、ほとんど茅葺きだった。納屋兼家畜小屋は、床を石敷き、屋根裏を物置にした平屋造りの建物であった。〈金城真吉〉

下図は、おきなわ郷土村に再現された近年の民家の説明看板です。

近年の民家から、かつての民家では確認できなかった納屋、フール(豚便所)、そしてヒンプンの画像をアップします。

・畜舎兼物置小屋で利用されていた納屋です。

・フール(豚便所)です。明治14年に島尻郡を視察した上杉茂憲県令一行が、用便を足した場所もこんな感じの豚舎だったかもしれません。

・家屋内一番座から撮影したヒンプン(石垣造り)です。ヒンプンについては『沖縄大百科事典』の説明を参照ください。

ヒンプン 屋敷の正面の門と母屋とのあいだに設けられた屏風状の塀。沖縄の民家建築を特徴づける典型的な要素で、呼称は中国語(北京語)の屏風(ビンフン)(仕切壁・囲い・障子・屏風などを意味する)に由来する。材料・手法・空間処理の方法は種々雑多で、一枚岩・石垣・瓦石垣・生垣・チニブ垣・板垣などがある。外部からの視線をさえぎるための目隠しの機能だけでなく、禅寺の結界と同じく〈悪霊を防ぐ〉という信仰上の役割も担っている。このことはガジュマルの木をヒンプンに見立てた、いわゆる〈ヒンプンガジュマル〉が、墳墓の前庭や街なかに設けられていることからもうかがえる〈金城真吉〉

現代は家屋のデザインは自由ですが、ブログ主の覚えている限りでは昭和の民家(瓦葺やトタン葺)は確かにこのような間取りでした。違うのはフール(豚便所)がなくて、風呂場兼トイレが設置されていたことですが、水道が一般家庭に普及したことが原因です。上記の説明にも記載があるように、明治22年(1889)以降の民家はかつての士族階級の間取りを参照にして建設されました。次回の記事で当時の地頭代の家の画像をアップします。(続く)

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