
前回の記事において、(現時点で)ブログ主が所持している史料を基に、アメリカ世時代の自警団の歴史について言及しました。ここで強調しておきたいのは、自警団はあくまで地元側の要請が不可欠であり、那覇派やコザ派のアシバーたちが勝手に「作りたい」といっても出来ない代物であることです。
※実際に昭和37年(1962)8月、美里村吉原で自警団設立を巡るトラブルで喜屋武盛晃が逮捕された事件があります。
勝連に話を戻しますが、沖縄タイムスの記事に松島料亭街について次のような記述がありました。
松島料亭街は、美里村吉原の料亭街とともに売春地帯として名を売っている。字南風原の本部落から東側におよそ500㍍離れ、与勝8号線から100㍍ぐらい中にはいった森の中にある。50年ごろからバーや小料理店がぽつり、ぽつりでき、現在19軒が営業、約30余人の女給が働いている。まちの発展とともに数年前から不良者や暴力グループが出入りするようになり、暴力ざたがたえなかった。そのため、料亭街では全業者が団結して63年3月ごろ自警団を結成、暴力しめ出しにのり出し、昨年6月ごろまで事件らしい事件もなかった。しかし、泡瀬派、山原派暴力団の対立がはげしくなってからふたたび暴力グループの出入りが目立ってきた。山原派がコザ市内園田や美里村吉原から金武、嘉手納、普天間一帯の特飲街に縄張りを広げたのに対し、泡瀬派はコザ市内、胡屋から具志川村安慶名、勝連村松島、石川方面に勢力をのばしていった。ところが松島料亭街が自警団の結成で自由にできないため泡瀬派とつながりがあるとみられる暴力グループによるいやがらせがたえなかったという。(昭和40年4月17日付沖縄タイムス朝刊7面)
ここで重要なのが、「全業者が団結して63年3月ごろから自警団を結成」の件であり、それはつまり「自警団の運営ノウハウを持つ、旧コザ派(現山原派)に極めて近い人物を通じて、業者が自警団を結成した」ということなんです。なんてことない、最初から地元業者と自警団員たち(お察し)が一致団結して松島料亭街の防犯活動を行っていた訳です。
しかも結成時が63年(1963)ということは、前年の琉球警察によるコザ派・那覇派のいっせい取り締まりによって
かえって地方の治安が悪化していた
ことの裏返しなのです。事実、昭和38年には犯罪発生件数も、犯罪発生率も激増しています。
勝連の松島料亭街の事件は、自警団と地元不良グループとのいざこざが主因で、関係ない第三者が殺害された悲惨な結末になりました。だがしかし、この事件を分かりにくくしているのは、本部派(山原派)と泡瀬派との対立を前提に事件を捉えているからです。そして「自警団」は厳密には縄張りではなく、
アメリカ世時代の特飲街においてもっとも適切な防犯組織
で間違いありませんが、世間はこの事実を絶対に認めることができない “鬼子” の存在だったといっても過言ではありません。
自警団の話はここまでにしておいて、次回からは「刃物による刺傷事件の多発」について言及します。
【追記】せっかくなので昭和37年(1962)8月5日付琉球新報夕刊3面の記事をアップします。なお、喜屋武盛晃の写真が掲載されている貴重な内容となっています。