おまけ 辻政信氏失踪事件に関する記事

先日昭和53年(1978)10月の県内二紙(琉球新報、沖縄タイムス)を調べていたところ、辻政信失踪事件に関する記事が掲載されていましたので、ついでといっては何ですが当ブログにて書き写しをアップします。真偽は不明ですが、一般紙が事件について大々的に掲載している点が実に興味深いです。読者の皆さん是非ご参照ください。

【追記】沖縄タイムス・琉球新報の記事を比べてみると、琉球新報の方が非常に詳しく事件を掲載しているのが印象的です。

昭和53年10月13日(金)沖縄タイムス夕刊1面掲載

ジャール平原で銃殺 – 辻政信失踪事件 処刑理由はスパイ?

戦後の大きな”迷宮入り国際事件”の一つ、辻政信氏失踪事件の真相がほぼわかった。三十六年春、現職の参院議員のまま僧に変装、ラオス解放区からハノイ入りを図った辻氏は、翌年春パテトラオ軍(パテト・ラオ)に銃殺され、ジャール平原に埋葬された。処刑理由はスパイ容疑だったとみられる。

辻氏のジャール平原潜入を手配し、ビエンチャン(ヴィエンチャン)郊外まで見送った前在ラオス日本大使館勤務・赤坂勝美氏(五六)が、銃殺の引き金を引いた三人の兵士のうちの一人から直接この証言を得た。この兵士は赤坂氏が第二次大戦後、旧日本軍から転じてラオス解放戦争に従軍していたころの部下で、現在ジャール平原で遺体の捜索に当たっているはずという。

ラオスから三十三年ぶりに帰国した赤坂氏がこのほど共同通信にこれらの新事実を明らかにしたもので、治安当局も「これまでで最も信頼性のある情報」と評価している。生存説、他殺説が入り乱れ、ナゾの多かった辻氏失踪事件にも、十七年ぶりに一応の黒白がついた形となった。

赤坂氏の証言によると、辻氏の最後のもようは次のようだ。

昨年夏、ラオス解放軍にいたときに教えた旧部下がジャール平原からビエンチャンに帰って来た。辻氏の行方不明以来、消息を追っていたので早速話を聞いた。

その部下は「一九六二年(昭和三十七年)の一~四月ごろ、上官から命令され、私を含めて三人で(辻氏を)銃殺した。何の罪で銃殺されたかは知らない。死体はジャール平原の一角に他の兵士が埋葬した」と衝撃の告白をした。

さらに「その後その付近に行ったが、住民はだれも居らず、木が茂っていて埋葬場所はわからなかった」と話した。このため赤坂氏は発掘を依頼し、資金の提供を申し入れた。この部下はことしの末までに消息を持ってくると約束し、ジャール平原に帰ったという。赤坂氏は辻氏はスパイ容疑で銃殺されたと推測している。

赤坂氏はこの部下から銃殺に関係した人物の名前、埋葬場所なども聞いているが、これらの人物のなかに現ラオス政府の高官も関係しているとして、詳細を明らかにすることを避けている。

赤坂氏は解放軍当時の人脈を生かして戦後もラオスの定住、辻氏の潜入当時は東京銀行ビエンチャン支店に勤務、その後は日本大使館に勤め、ラオス当局や国民からも信頼されていたという。ところが、最近好ましくない言動をしたとの理由で突然国外退去を命じられ、九月初め日本に帰っていた。

赤坂氏の情報について治安当局筋は「これまでにない具体的な情報で信頼性がある」と評価。赤坂氏の国外退去も辻氏に対する捜索活動が影響しているのではないか、との見方をしている。

辻氏は三十六年四月二十一日、赤坂氏に見送られてビエンチャン郊外からラオスの青年僧二人とともにジャール平原に向かった。ハノイで当時のホー・チ・ミン大統領に会い「アジア人のアジアをつくろう」と説得するのが目的だ、と赤坂氏に語ったという。

三十六年六月ごろまではジャール平原のバンビエン(ヴァン・ヴィエン)、カンカイ(村)で辻氏を目撃したという情報もあったが、その後、全く消息を断った。辻氏失踪をめぐってはハノイ、中国、さらにはキューバ潜入説が出たり、病死、事故死、他殺説など怪情報が乱れ飛んだこともあった。辻氏は四十三年七月二十日、民法上の死亡宣告をされている。(共同)

昭和53年10月13日(金) 琉球新報夕刊3面

スパイ容疑で銃殺 / 辻政信氏失踪事件の真相 / 前在ラオス日本大使館勤務の赤坂勝美氏 – 新事実を証言

戦後の大きな”迷宮入り国際事件”の一つ、辻政信氏失踪事件の真相がほぼわかった。三十六年春、現職の参院議員のまま僧に変装、ラオス解放区からハノイ入りを図った辻氏は、翌年春パテトラオ軍に銃殺され、ジャール平原に埋葬された。処刑理由はスパイ容疑だったとみられる。

辻氏のジャール平原潜入を手配し、ビエンチャン郊外まで見送った前在ラオス日本大使勤務・赤坂勝美氏(五六)が、銃殺の引き金を引いた三人の兵士のうちの一人から直接この証言を得た。この兵士は赤坂氏が第二次大戦後、旧日本軍から転じてラオス解放戦争に従軍していたころの部下で、現在ジャール平原で遺体の捜索に当たっているはずという。

ラオスから三十三年ぶりに帰国した赤坂氏がこのほど共同通信にこれらの新事実を明らかにしたもので、治安当局も「これまでで最も信頼のある情報」と評価している。生存説、他殺説が入り乱れ、ナゾが多かった辻氏失踪事件にも、十七年ぶりに一応の黒白がついた形となった。

赤坂氏の証言によると、辻氏の最後のもようは次のようだ。

昨年夏、ラオス解放軍にいたときに教えた旧部下がジャール平原からビエンチャンに帰って来た。辻氏の行方不明以来、消息と追っていたので早速話を聞いた。

その部下は「一九六二年(昭和三十七年)の一~四月ごろ、上官から命令され、私を含めた三人で(辻氏を)銃殺した。何の罪で銃殺されたかは知らない。死体はジャール平原の一角に他の兵士が埋葬した」と衝撃の告白をした。

さらに「その後その付近に行ったが、住民はだれも居らず、木が茂っていて埋葬場所はわからなかった」と話した。このため赤坂氏は捜索を依頼し、資金の提供を申し入れた。この部下はことしの末までに結果を持ってくると約束し、ジャール平原に帰ったという。赤坂氏は、辻氏はスパイ容疑で銃殺されたと推測している。

赤坂氏はこの部下から銃殺に関係した人物の名前、埋葬場所も聞いているが、これらの人物のなかに現ラオス政府の高官も関係しているとして、詳細を明らかにすることを避けている。

赤坂氏は解放軍当時の人脈を生かして戦後もラオスに定住、辻氏の潜入当時は東京銀行ビエンチャン支店に勤務、その後は日本大使館に勤め、ラオス当局や国民からも信頼されていたという。ところが、最近「好ましくない行動をした」との理由で突然国外退去を命じられ、九月初め日本に帰っていた。

赤坂氏の情報について治安当局は「これまでにない具体的な情報で信頼性がある」と評価。赤坂氏の国外退去も辻氏に対する捜索活動が影響しているのではないか、との見方をしている。

辻氏は三十六年四月二十一日、赤坂氏に見送られてビエンチャン郊外からラオスの青年僧二人とともにジャール平原に向かった。ハノイで当時のホー・チ・ミン大統領に会い「アジア人のアジアをつくろう」と説得するのが目的だ、と赤坂氏に語ったという。

三十六年六月ごろまではジャール平原のバンビエン、カンカイで辻氏を目撃したという情報もあったが、その後、全く消息を断った。辻氏失踪をめぐってはハノイ、中国、さらにはキューバ潜入説が出たり、病死、事故死、他殺説など怪情報が乱れ飛んだこともあった。辻氏は四十三年七月二十日、民法上の死亡宣告がされている。

辻政信氏(つじ・まさのぶ)旧陸軍大佐。昭和十九年、ビルマ派兵第三十三軍参謀。バンコクで終戦を迎える。戦犯を恐れ、タイ僧に変装して消えた。二十五年、戦犯容疑の解除とともに帰国「潜行三千里」を出版してベストセラーとなった。その人気に乗じ、二十七年、石川一区から衆院議員に立候補、当選。三十四年、参院選に当選したが二年後の四月、タイとラオスの国境を北上中に消息を断った。

兵士から直接証言を得る

赤坂勝美氏が明らかにした辻政信氏失踪事件のてん末は次の通り。

▹ホー大統領と会いに

辻先生に初めて会ったのは三十六年四月で、当時勤めていた東京銀行ビエンチャン支店の支店長から「辻先生が来ている。滞在中の面倒をみてくれ」と言われたため、辻先生はラオスに来た目的を「ハノイに行き、ホー・チ・ミン大統領に会って、外国人とのつまらない戦争をやめ、アジア人のアジアをつくろうと説得するためだ」と言い、ホー大統領をはじめ周恩来中国首相、ナセル・エジプト大統領など外国の要人と会見したときの写真を十枚ほど見せてくれた。

辻先生が出発する際、私はミンガホー・パテトラオ軍第二軍区司令官(当時)など解放軍の要人にあてた四達と、ジャール平原へ行く途中の村の村長あてたラオス語の紹介状を渡した。

▹僧に変装

辻先生は僧りょの姿に変装した。友人の僧が「その方が安全」と言ったからだ。マユもそった。

出発は四月二十一日朝あった。

ジープでビエンチャン郊外まで送った。おともは私の友人が紹介した青年僧二人。そのころ、ビエンチャンの近くまで進攻していた解放軍の指揮官を私の友人が知っていたので、そこまでの約束で二人は同行した。

持ち物は背広、ネクタイ、タイピン、Yシャツ、パスポート、旅行者小切手、くつ、くつ下をふろしきに包んで、おともの青年僧に持たせた。先生は僧が旅をするようにカサを持ち、ズダ袋に仏像を入れていた。これらはいまだに発見されていない。

なぜジャール平原に向かったかというと、当時、あそこから北ベトナム行きの飛行機便があったからだ。

▹銃殺して埋める

その後、先生の行方がわからなくなっていることを知り、消息を追っていた。昨年夏、私が解放軍にいたとき教えた部下がジャール平原からビエンチャンに帰ってきたので、お茶を飲みながら辻先生の話を聞いた。

彼は「一九六二年の一月 – 四月ごろ、上官から命令され、私を含めた三人で銃殺した。何の罪で銃殺されたかは知らない。遺体はジャール平原の一部に他の兵士が埋葬した」と教えてくれた。彼はまた「その後、付近に行ったが、住民はだれも居なくて、木が茂り、埋葬場所はわからなかった」と言った。

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