ソ連の裏と表 ⑶ – きりつめた市民生活 – 肉や砂糖はめったにない

(三)【市民生活】 終戰直後のソ連の疲弊状態は、非常にはなはだしかった。一九四五年入ソ当時、私はこれが戰勝國なのだろうか、と驚く反面よくこれまで我慢して戰ったものだ、と感心したものだった。衣食住ともに極度に不足している態だったから、満洲にある日本人の財産は何でも欲しがった。目に見えるもの、手にふれるものは、すべて彼等にとってはめずらしい貴重なものであった。

軍用の工場倉庫は空にして持って帰るのは勿論、個人の家のたたみや、屏風までも、その使い道は分らないでも汽車に積み込んで持ち帰る様は、滑稽にさえ見えた。大縞のフトンがわの布でスカートを作って得意そうに歩いている女も当時は見受けられた。日本人捕虜に対する被服、食糧も殆んど満洲から運び入れたものでまかなわれていた。もっとも食糧のその大部分が日本軍の馬糧であったが

その様な戰後の疲弊狀態を戰爭のセイとし、すべてドイツと日本の罪に帰してやがて平和建設に向えば数年内に國民生活は向上して、アメリカを追い越すと宣伝して、五ヵ年計画の遂行にハクシャをかけていた。ところがその後、十一年を経過した今日、どの程度にソ連の國民生活が豊かになったかというと実は大して変っていない。勿論その当時に比較すれば物資も相当市場には出ていることは事実である。現に主食の配給制はすでに廃止されたし、物価の値下げも数回実行している。しかし私が日本に帰って来て先ず第一にビックリしたことは國民の消費生活、特に衣食生活の豊かさであった。これが戰爭に負けた國民の生活だろうか、と疑わずにいられない程だった。何故なら戰勝國たるソ連の戰後十一年後の一般市民生活の水準はまだまだ余りにも低いのを見て来たからである。目立って復興しているのはソ連の都市である。工場その他の高層建築物はどんどん増え、道路も著しく改装されたが、市民生活の衣食面はまだまだの感じである。おそらく重工業重点主義のため故意に消費物資の生産を制限するところに大きな原因があるかもしれない。とにかく現狀は質量ともに悪い。

労働者は冬は男女同じ粗末な綿の上下をまとうので区別がつかない。最近私達の労働に対して月最高百五十ルーブル(円)以内の労資を支給するようになっていたが、日本からの小包で送って来るビニールの風呂敷一枚がヤミに流れると二百ルーブルに売られていく。それ程その種の物はない。ハバロフスクの市内で背広にネクタイをしめたのは幾人と数えるだけで、それは相当の地位にある党員の活動家と見ても先ず間違いがない。写真機を持って歩く人はめったにない。

目立って多いのは種々の階級章を付けた制服姿、それも殆んど軍人である。階級のない國に階級章と勲章があこがれのまとになるのだから面白い國である。主食は黒パンであるが私達囚人に対しては九八%パンを配給、一般市民に対しては九六%パンを販売している。九八%とは畑から収穫したばかりの原穀を百%として、その中二%の精製の粉という意味で、しかも粟高粱等、種々雑多の混合物であるから、まずいことこの上ない。一般市民にとってはそれでも最近は自由に買うことが出来るからいいとしている。白パンと称するのが灰色のパンで八〇%位の粉だが、それは並んで買わねばならない。砂糖などは二ヵ月三ヵ月も市場に出ないことがよくある。副食は塩漬の魚とジャガ薯の料理が普通で、それに生ネギかニンニクの幾ツブかがつけば上等の方である。元来ロシヤ人は肉食の好きな國民であるが肉類は非常に手に入りにくい。

煙草はマホールカと称する、●屑様の臭いキザミで、新聞紙をやぶいて、器用にツバでまるめて吸うのが一般用である。(1957年5月2日付沖縄タイムス夕刊4面)

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