人身売買の話

先日、沖縄県立図書館にて昭和11(1936)年の新聞切り抜き集をチェックしていたところ、『綠蔭閑話』と題した又吉康和さんの論説を3話見つけました。その中で義村按司朝明について言及した箇所があり、当時疲弊の極みにあった東風平間切(旧東風平町、現八重瀬町)の建て直しに彼が尽力したエピソードが記載されています。

ブログ主の注意を引いたのは東風平間切の疲弊ぶりで、その箇所を抜粋すると、

今から約八十年前尙育王時代、東風平間切は疲弊極度に達し高良、友寄、志多伯、當銘、伊覇、東風平(今の字)六村の困ぱいは酷く、殊に前三村は悲惨を呈した、義村家の系圖に依れば、

東風平間切之儀連々疲入内負荷身賈人及重髙居候間云々

とあり、負債百二十六万七千貫文、身賈人二百三十六人とある。〔百〕二十六万七千貫と云へば今日の二十万圓以上であらう。

とありますが、義村家の家譜を調べたところ上記引用は道光年間(1821~1850)年のお話で、同11(1831)年に池原親雲上、同15(1835)年に上里親雲上を下知役(=疲弊あるいは破産した間切を立て直す役人のこと)として派遣したとあります。

ちなみに咸豊9(1859)年に義村按司が直々に東風平に乗り込んで間切の実情をしらべたところ、その実態ははるかに酷く、同治3(1864)年に作成された覚書には

(中略)身賈人四百八拾二人、身代錢四拾三萬九千貫文餘相及夫々兼て申出よりも格別相重彼是以百姓共不相應之持高にて一統氣を落候付

とあり、東風平間切が悲惨な状態にあったことが伺えます。なぜこうなったか、あるいはどうやって立て直したかについては置いといて、ブログ主の興味を引いたのは間切内において身売人の数や身代金をどうやって正確に把握していたかですが、貢租納入目的の人身売買については村(地方自治の最小単位)の許可が必要だったのです。東風平間切についてはチェックしてませんが、傍証として高嶺間切の内法に人身売買についての記述がありましたので全文を紹介します。

貢租滯納スル時ハ妻子ヲ身賈セシメタル慣行アリシハ内法ニ示ス所ナリ、而シテ人身賈買ハ自由ナルモ滞納ノ場合ハ親類與中又ハ村屋へ申出テ許可ヲ受ケリ。

高嶺間切各村内法 第三十九條

他人の内諸上納拂亦は何かに付身賈不致候て不叶節は與中並村屋へ申出許可の上身賈可致候若相背き我儘に身賈致候者は金壹圓以上五圓以下賈主へ申付候上各親類與中の家主へも拾銭以上五拾銭以下科金申付候事

引用:田村浩著『琉球共産村落の研究』382~384㌻より抜粋。

ほかに本部間切にも同じような規定があり、当時の自治体では貢租滞納時の身売りに関しては何らかの制限を設けていたことが伺えます。そして東風平間切において身売人およびその金額を把握していたことも頷ける話といえます。

余談ですが、人身売買が成立するには当然”買い手”が必要であり、当時の琉球社会にもエーキンチュ(資産家)が一定数存在していたことが分かります。問題は彼らの資産が社会に循環しないことであって、結果として社会全体が貧困状態のままになります。言い換えると当時の琉球は”風が吹いても桶屋が儲からない”社会だった可能性が極めて高く、構造的な貧困状態に置かれた当時の住民たちの境遇は察して余りあります。

貢租納入のために身売りする話は琉球に限らないとは思いますが、構造的貧困のなかで身売りして納税する状況は蛸が自分の足を食べるようなもので、最終的に琉球経済が破綻を極めて日本政府にお引取りになったのも必然かなと実感したブログ主であります(終わり)。

 

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