売春の実態探る / 夜の「吉原」(2)

閑古鳥鳴くバー街 24日午後6時、吉原内の中間にあるT字型道路横のかっぽうが開店準備。売防法が実施される以前は遊び、酔い客でにぎわっていたが、最近では閑古鳥が鳴くといったしまつ。男3人、女2人の従業員が店先で雑談しながら客待ち。そばを仕入れにきた行商人が「景気はどうか」と聞いていたが、店の従業員は「ごらんの通りだ」とションボリ。

また同時刻ごろからネオンを点灯したサロンがあったが、店の面積は3.3平方㍍(1坪)だけど、そこには長さ1㍍くらいのカウンターとその前に腰掛け二脚を置いてあるだけ。陳列だなにはウィスキーのあきびんが数本並んでいたが、どう見てもサロンには見えない。やはりサロンというのは表面だけのもので、奥には間取りされた四畳半ぐらいの部屋が並んでおり、管理売春とすぐわかる。ここのウェートレスとして勤めている4人の女性はいずれも特殊婦人だった。

この女性たちの話によると、同店は夜間、警察の取り締まりがきびしくなったので、売防法が実施されてからは毎日午後2時に開店し、遊び客を取っている。このように吉原には見せかけだけのちょっとしたサロン、バーを併置した売春宿が多い。

特殊婦人大半がもぐり売春

観光客専門に 吉原のネオンがそろそろ輝いたのは午後9時をだいぶ回ったあと。しかしどの通りにも少ないところで2~3軒、多いところで数件も店を閉じたところがあるためネオンもクシの歯がぬけたようにまばらで光りも弱い。同日午後9時30分に記者は店を替えて吉原の境にあるサロンにはいった。ここに勤めるA子さん(34)は16歳の時に奄美大島から父、兄といっしょに沖縄にかせぎにきた。Aさんは18歳で同じ奄美出身の男と結婚し所帯をかまえたが、うまくいかず4年後に離婚した。その後はメード、Aサインバーのウェートレスなどに身をかえ、吉原に仕事を移してから4年になる。店への借金はないので、遊び客はほとんどが本土の観光客だけ。

本土の観光客はチップもくれるし、遊び代も高値をふっかけることができる。地元の遊び客はつまらないというのが観光客専門にかわった原因。さらに宮古の上野村から中学を退学して15歳の時に沖縄本島に渡ったB子さん(21)はずっと特飲街のウェートレスをしながら売春行為を続けている。その間に数千㌦の借金をしたこともあったが、いまの店に来るまでには全部返済し、これからは自分の生活さえできればよいという。15歳で結婚の夢破れたB子さんは完全に男性不信におちいり、独身で売春1本で生計を立てている。いまの売春宿はおでん屋に改造するというが、その時には個人売春に変わる考えという。

午後10時20分、やはり客の姿は1人も見受けられない。以前はこの時刻ともなると遊びを求める人や、酔い客で騒がしいほどだった。料亭では経営者の婦人と女性2人が三味線や民謡で客を呼んでいる。しかしその通りを歩く客の姿は1人も見当たらない。10時40分過ぎに通りかかった30歳くらいのほろ酔い気分の客1人をやっと連れ込んだ。その料亭では「あんたが今夜初めての客なので、たっぷりサービスするよ」と大臣並みの歓待ぶり。だがこの料亭が店をしめた午前零時過ぎまで客はこの男1人だけ。おかみさんはここに料亭をかまえて13年になるというベテラン。その間には100人あまりの女性を雇ってきたが、それまでに数人の女性に借金を踏み倒され、そのうち最高は2,500㌦。現在この料亭は4人の女性を雇っているが、4人とも前借金はないという。1人は関西出身の女性で売春を初めてまだ2カ年ちょっとにしかならない。この男は4人の女性から遊びを要求されたが、最初から最後まで客は自分1人だということに不気味さを感じ、閉店すると同時に店を飛び出していった。

おかみさんは「いまは全体的な不景気で特飲街の中の町も客足は非常に減っているようですよ。社会や物価が安定すれば吉原もなんらかの形で活気を取り戻すでしょう」と自分を慰めるようにその客に話しかけていた。この道ベテランの同料亭のC子さん(38)は「たとえ売防法が実施されたとしてもこんなに客足が減るとは思わなかった」と極端な世替わりが信じられないといった様子。C子さんは「更生施設は少年院と全く同じものであり、だれがそんな施設にはいるものか。もしいまの店が経営方針を変えるようであれば中の町の特飲街でウェートレスをしながら個人売春をやる」といい切っている。

ところで午前2時近くになっても客の姿は全く見られない。警察のパトロールもそれまでなかったが、特殊婦人たちは街頭に出る様子もない。人の通る足音がするとまっ暗い格子戸から顔を出し、「兄さん!安くするから遊んでいってよ」とやたらに鼻にかかった甘い声で連れ込もうとする。午前零時で消えたネオンのかわりに散在する街灯だけがおぼろげにあたりを照らす。5月15日を機会に赤線地帯の吉原は、表面上消えうせたという感じをこれには強く受けた。(中部支社報道部)

*昭和47年05月26日付琉球新報面より。

SNSでもご購読できます。