宮古島の奇跡

以前、当ブログにて “宮古島の惨状” と題した記事を掲載したところ、予想の斜め上をいく反響がありました。廃藩置県直後の明治15年に宮古島を訪れた日本人(尾崎三良)の滞在記から一部を紹介したのですが、余りの貧困ぶりに絶句した読者もいらっしゃるかもしれません。

今回は「写真集 むかし沖縄」(那覇出版社)の中から昭和の宮古島の様子を紹介しますので、是非ご参照ください。

そのまえに尾崎三良琉球行日記から宮古島の惨状を再掲載します。

〔八月〕十五日(土)夜来雨

(中略)午後二時半漸く(久米島から)宮古島漲水泊に達し投錨、久米島より凡海路百七十六里(691.2㌔)、端艇(=小舟)を下し上陸、凡そ一里(約4㌔)役所に至る。役所は海岸に面し汽船より之を望めば赤瓦白甍茅舎中に点々たり。蓋し旧藩の所謂蔵元(くらもと)にして宮古島には民家皆茅屋にして瓦葺は止之のみ。所長以下に面会、晩刻東仲宗根(あがりなかそね)村大村寛栄方に止宿、日暮れて晩餐至らず衆皆飢食あり。九時に至り飯汁纔に至る〔も〕食器なし、皆七箸(七角箸?)を以て真(=直)に鍋より飲食す。其困難推知すべし。

大村寛栄なる者宮古島中尤富豪の聞へあるものにして当地の所謂門閥家代々与人頭等を勤む。現戸主尚幼年而るも既に蔵元筆者なりと云。其舎三棟の草茅一大二小、其大には即坐敷八畳幷に仏壇の間次三畳六畳余等、八畳三畳の二間を仮り随官白倉幷に僕一人田代安定等共に宿す。飯汁賄は徳田作兵衛手代之を擔任し時々送付す。然共(しかれども)飲食具不備不自由限りなし(中略)

大雑把に説明すると、島一番の富豪の家に宿泊の際、食事に食器が提供されず食事に難儀したという内容ですが、この状況が40年以上経過した昭和の時代には一変するのです。ためしに下記引用をご参照ください。

むかし宮古の玄関 – 台湾に行く時、帰る時あがめた漲水港と平良町の遠景である。大正末期は千五百トン級の宮古丸、昭和になってから二千トン級の湖南丸が台湾定期便として宮古、八重山経由で航行した。

漲水港沖合に停泊し、平良の町を遠くにながめていると、桟橋でもやっていたはしけが帆を張って上陸客を迎えにくる。その光景は実に壮観であった。戦後は築港も完備し、岸壁には常に、二、三千トン級の鉄船が横着けにされるようになった。南西航空が就航するまでは宮古の玄関であった。(中略)

西里大通り – 昭和の初期頃まで、那覇をはじめ沖縄のどこの地方都市もそうであったように、宮古の平良のまちも、緑が深く静かで平和な町であった。西里大通りは、平良のメーンストリートであり二階建ての建物はわずかで、ほとんどが平屋である。

ここに乗用車が入ったのは昭和4年で、それも少数の医者が使用するだけであった。客馬車が大正5年に現れたが、バスは昭和12年に出たといわれる。写真は自転車と荷馬車がみられる。通行の人も少なく、はだしてのんびりした風景である。昭和初期の町の商店は統計によれば約四百軒で一番多いのが雑貨商の184軒、料理屋が22件、理髪業が21軒、上布洗濯が21軒、呉服商11軒、飲食店17軒、履き物屋が9件、小間物店が10軒、旅館10軒で、少ないので書籍商3軒、映画館1軒となっている。

それらの大部分がこの大通りに集中していた。今では、自動車が、乗用車で四千,貨物車で四千をふくんで一万台に近く、商店数も九百軒にのぼる都市に変貌している。(島尻)

引用:「写真集 むかし沖縄」216~218㌻

既に当ブログで言及していますが、我が沖縄において沖縄本島住民と離島住民が同一の政治権利を持つようになったのは大正時代からです。それだけではなく「写真集 むかし沖縄」の記述では島内インフラも劇的に改善されています。

2階建ての建物が存在する宮古島なんて尚家が支配した時代では絶対にありえません。

明治12年(1879)の廃藩置県を契機に沖縄県内の離島は “尚家のくびき” から解放され、発展の一途をたどってきました。アメリカ世時代から復帰後も本島出身者と離島出身者は “沖縄県民” としての連帯感のもと歴史上最も住みよい時代を過ごしているといっても過言ではありません。

にもかかわらず我が沖縄本島民には未だに離島出身者を見下していると誤解されがちな言動が見られるのです。その傍証として以下ツイートをご参照ください。(ツイート主は沖縄県糸満市出身)

ブログ主はこのツイートに目を通したとき、”静かなる侵略” という表現を使ったことに本島出身者として離島出身者に対し申し訳ない気持ちにかられました。そして

無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり

の意味を実感したブログ主であります。(終わり)

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