尚泰候の決断 その3

(続き)明治8年(1875)年9月7日(新暦)、明治政府、とくに来琉した松田道之との交渉過程で「事ここに至っては」の状況であると判断した藩王尚泰は、三司官に対し明治政府からの「御達書」を遵奉する旨を伝え、三司官側からも特に反対意見がなかったため、那覇へ使者を遣わす手はずを整えるよう命じます。

この日の騒動については「琉球見聞録」と「尚泰候実録」では一部記述が異なる部分はありますが、ブログ主なりにまとめてみると、

①王の決断を聞いた高官たちは首里城から退出するも、清国との関係断絶に断固反対する一派(亀川親方を中心としたグループ)が首里城に仲間を100人ほど呼び集め、城の三門(歓会・久慶・継世)を封鎖して王の使者が那覇へ出立できないよう実力行使に及ぶ。

②首里城内が喧騒を極めるなか、王は急きょ使者を那覇へ送り出すよう命じるが、その使者が久米村で那覇・久米・泊の士族らに捉えられ、騒動に巻き込まれた王の使者たちは「遵奉書」を松田に渡すことができず、首里城に引き返してしまう。なお、松田は暴動まがいの出来事が起こったことにより、一時的に避難せざるをえない状況になる。

③首里城内では(使者の出立後も)亀川一派が召集した士族たちが王命を翻さんと号泣嘆願を繰り返し、王の説得もむなしく、最終的には「遵奉」を取り消す命令を発して騒動は終結。

になりましょうか。そして、この事件がもたらした影響は極めて甚大であり、大雑把に説明すると、

①王の命令が臣下の実力行使で覆った前代未聞の出来事が現実に起こったこと。

②王の決断により王や政府高官だけでなく、明治政府の使者たちにも身の危険が及びかねない事態になったこと。

③この騒動を起こした亀川一派や那覇・久米・泊の士族たちに対して、琉球藩は何の処分も下さなかったこと。

になります。その結果、

藩王の威信は地に堕ち

琉球藩庁は機能不全に陥ることになります。なによりもこの暴動まがいの出来事が藩王尚泰に与えた影響は極めて大きく、その後の彼は重大な決断が全くできない心理状態(おそらく心的外傷後ストレス障害)になってしまったのです。そしてこの悪夢はしばらくの間藩王を悩ませたらしく、明治12年(1879)の廃藩置県後も彼は目だった意思表示を行なうことなく、ひたすら自分の身を案ずる毎日を過ごす羽目になります。

この事件は、ハッキリいって臣下のバカな行動が結果的に王家や王族を滅亡に導いた典型例なんですが、どうやら巷のりうきう近代史ではあまり重要視されていなようです。

王家滅亡の原因を明治政府に “なじきる” にはあまりにも都合の悪い事例なので、有耶無耶にしておきたい

との現代りうきう史家の気持ちは理解できますが(だから「廃琉置県」なんて造語を使う)、社会を取り巻く環境の激変に対応しようとするトップに対して部下が足を引っ張る好例でもあるので、当ブログではやや詳しく言及した次第であります。

少し話が長くなりましたが、ここまでの説明で藩王尚泰が「決断力」を失った事例について理解していただけたかと思われます。それを踏まえた上で、明治29年の尚泰候の決断について次回言及します。(続く)

【追記】ここまで読んで勘のいい読者であれば、令和05年10月5日の玉城デニー知事の “決断” を思い浮かべたかもしれません。たしかに驚くほど状況が似てますし、とくに「玉城デニーを支える」支持者たちが、結果的に沖縄県知事の “威信” を地に堕としたあたり、歴史は繰り返すもんだなと妙に納得したブログ主であります。

SNSでもご購読できます。