ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その14

□基地内でバンド活動 さすがに金網の中までは縄張り料を取りにこないだろうと思って、私たちは同じメンバー(コンディショングリーン)で、基地の中をずっとまわってやっているわけです。

そしたら、ヤクザが「アッター・マーンカイ・ンジャ・ガ(あいつらはどこに行ったのか)」と探していたそうですが、「アッター解散サンドォー(あいつらは解散したよ)。派手によ、ステージの上で喧嘩して解散したみたいヤッサー(だよ)」ということを聞いて、「あのバンドォ・ナー・ネーン・バー(あのバンドはもうないのか)」といっていたそうです。

こうして、この三年間はベース(基地)でバンド活動をやっていたんです。金武、辺野古、嘉手納基地など、基地の中の将校クラブ、下士官クラブ、一般兵クラブで演奏をやっていました。

基地内でやるにはスペシャルサービス(基地内に出入りするための受付け窓口)というのがあって、一応オーディションを受けて音楽活動を始めるんです。

しかし、その前から頭にきていたのがあったんです。基地の中のことですけど「沖縄の島でフィリピンバンドが荒稼ぎをしているよ」というから、私は「ウマァ・ワッター・シマドゥ・ヤルムン・ヌ、ヌーガ、ワジワジー・スッサー・ウチナー・バンドォ・ムル・ジョージ・ヤルムン・ヌ、ヌーガ・ウッター・トゥ・ワッター・トゥ・ギャラガ・ウントゥーシ・チガイ・ガ。ウレー・ワジワジー・シ・ナラン・デー。ディカ、クゥンドー・ナーカン・カイ攻撃シカキラ(ここは俺たちの島なのになんでか、腹が立つなあ。沖縄のバンドもみんな上手なのに、なんでこれたちと俺たちとギャラが違うわけ。これは腹が立ってしょうがない。それじゃあ今度は基地の中に行って自分たちのバンドで攻撃をかけよう)」と思ったわけです。

そのときのメンバーは、シンキに、コウちゃん(長浜浩二さん)、エディ(津波秀英さん)も私も、あとはヒコー、そして今は音楽の先生をしているキーボードのエイジ(外間エイジ)というのがいました。この「コンディショングリーン」の出始めのこういう全盛期のときは、沖縄ではアメリカ人と闘っているときです。

そのころ、幸雄はダンプの運ちゃんをしていて、(バンド活動は)ストップしていました。

□基地外で活動再開 その私たちの合宿しているところに、金武でやっているときのオーナーが「ワンネー海洋博サーニ・ヨー、ホテル・タティーン・ディ・ナカイ・ジン・イッタル・ムン、ウリガ・ウカシク・ナティー・ネーラン、カッちゃん・ワンネー・デージ・ナトォー・シガ(俺は海洋博でホテル建てるといってお金つぎ込んだのに、これが全部おかしくなってしまって、かっちゃん俺たいへんなってるよ」力を貸してくれないかといって訪ねて来たんです。

私が「海洋博の景気で、ヌーガ・アマンカイ・マタ・マギー・チュクタン・バーイ(何であそこにまた大きいの建てたの?)」というと、「ワンネー・エー、ウフクラブン・ムル・ティバナチ、金武のあの一番マギーヌ・クラブ。エーカッちゃんお願い、ナー・イッカイ・イッター・バンド・サーニ。ワンネー店・カイ・クトゥ・ヤ、イッターガ・スンディ・イレー・カラ・店・カイクトゥ・ヤ、一番マギー・カイクトゥ、エー・シトゥラ・サニ(俺は大きいクラブもみんな手放したよ、金武のあの一番大きいクラブまで。なあカッちゃんお願い、もう一回あんたたちバンドで。俺店借りるから、あんたたちがやるというなら店借りるから、一番大きいやつ借りるから、なあやってくれないか)」というのです。

暴力団が来て私が蹴られたときにお世話になったオーナーが事業に失敗して丸裸になって来て「あんたなんかのバンドがやるなら一番大きなライブハウス借りるから」というので、私たちも「えー昔お世話になったオーナーだよ。ディッカー・エー、テーゲー三年ヤサ(さあ、もうだいたい三年たってるから)、ほとぼりも冷めているさ」といって、今度はまたベースまわりして三年後に民間に出てきたわけです。(続く)

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