ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その15

(続き)私は「エー・オーナー、ヤーヤ・テー(あんたはね)、今はさ・ワッター(俺たちの)バンドはベースの中も、野外で万座ビーチとかでイベントすると、アメリカー・ター・ワーラナイ・アチマイ・クトゥ・ヤー(アメリカーたちがいっぱい集まって来るしさー)、最近は日本人も三分の一コンサートに来るからよ、アメリカー・ター・ビカー・アラン・ドー(アメリカーたちだけじゃないよ)。どこでもいい、とにかく場所がボーリング場があったんじゃないか、映画館とか。一番ボーリング場ぐらいの広さがいいと思うよ」とオーナーにいったんです。

「フントー・ナー(本当か)、カッちゃん、間違いないか」と聞くので、私は「間違いない。ワッター(俺たち)バンドさ、ベースの中で人気ナンバーワン。このコンディショングリーンがやるっていったら客はどこでもついてくる」といったら、牧港の民間のところにイバノってありますが、むこうの地下に五〇〇坪ぐらいの広さがあるところがあって、「アマ・カレー(あそこを借りたら)」といって、そこ(ゴーゴークラブ=サウンドシティー)でやったら大受けになったわけです。

でも、その店は五〇〇坪で大きいから、ワッター(私たちの)バンドだけではたいへんだからということでオユキたちをさそったんです。

あのとき五八号線で嘉手納のあそこの国体道路の入り口のむこうで、ダンプカーの運転手をやっている喜屋武幸雄と、喜屋武マリーもキーボード弾いてやめてという時期でもうお家にいて主婦していて、何もバンドやっていなかったし、また幸雄が事故にあって、なんだかんだしていたんです。

そんなときに私が幸雄を訪ねて、「ヌーガ(何か)、カッちゃん」という彼に「ナー一回、バンド・チュクラ(もう一回バンドを作ろう)と誘ったんです。でも幸雄は「ワッター・マリー・ヤ、ウング・トゥ・ナトー・シガ(うちのマリーは、妊娠しているのに)」というので、「いいよ、マリーン・イリレー(マリーも入れて)」といって、で、それからまた一緒のバンドを組んだわけです。

こうして、マリーの旦那をひっぱってきて「ジグザグ」というバンドを今のコウちゃんなんかも誘って、二つのバンドを作ったんです。

それで、「ウレー楽器ヤ、マーカラ・コウイ・ガ(これの楽器はどこで買うのか)」ということになって、香港まで行って楽器を買ってきたんです。

そうして、私たちは金武で一二時までやって終わったら、また浦添市の「サウンドシティー」でやっていたわけです。

そこ(サウンドシティー)には、浦添市か宜野湾市か何かわからんが、教育委員会かなんか青少年を育てる会とかそういう人たちも来て「こんな立派なものができて、若者の健全育成のためにきっと役立ちます」という挨拶までしているんですよ。

しかし、サウンドシティーは、儲け過ぎてつぶたんですよ。あのとき、二つのバンドであまりにも人がいっぱい入り過ぎて、経営者が欲を出して一二時あとも営業するようになったわけです。一二時半ごろまではいいんですが、一時、二時まで営業してしまって、さらに未成年者まで入れたものですから、今度は警察の手入れがあって特捜の灰色のバスが五台並んで来てみんな補導されて、これは新聞にも載っていましたよ。それで一年ぐらいでつぶれたかな。

そのときに補導されずに助かった生徒たちが、今では会社の営業課長とかなんとかの役員になっていて、「カッちゃん、あのときの思いは一生忘れないよ。すぐステージにいるカッちゃんがステージの裏まで誘導したさな、あそこまではさすがの警察もわからんかったさ。あのときは見事ヤタッサー(だったね)」と、そのときの女性や男性が大人になって、あの時の事を話に来ますよ。

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