ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その4

□高校三年で社交ダンスを教える ようするに学校の伝統というか、後輩は先輩に対してあいさつするとか、上級生になるまでは生意気なことをしたらだめだとかいうのがあるんですけど、私は先輩も後輩も平等、男性も女性もみんな平等と思っていますし、一年のときからこうだから目に入りますので「なんだこいつは新入生のくせに」ということで呼ばれて、それで四人ぐらいに三度、制裁を加えられたんです。

しかし、それでも私は変わらなかったですね、「ああ、こういう人もいるんだな」と思いました。

また、コザ高では、校内マラソンも常に一〇番以内にばかり入っていました。また、三年間ずっと駅伝にもかり出されていました。

それから、卓球で岡山国体(一九六二年)にも行きました。

オユキは私より一期先輩ですが、那覇の工業高校〔=沖縄工業〕に行っておかしくなって、一年のころにはもう異性に対してませていました。むこうは離島やいろんなところから人が来ますので、それで、コザンチュ(コザの人)じゃなくなってしまって、なんか変に洗脳されて都会的な雰囲気でコザに帰ってきて、私が一所懸命、水泳やったり、体操やったり、マラソンやったり、今ではすごく暗いマイナーなスポーツといわれていますけど、あのときはメジャーだった卓球をやったりしているときに、こっちから見ると大人っぽい女性と一緒に腕を組んでやってきて、「カッちゃん、踊りにいかないかい」と誘いに来たんです。

こっちは「踊りって何ですか」という感じで、そのときの私は、モンキーダンスとか、ツイストとか、マッシュポテトとかのジュークボックスの踊りしか知らなかったのですが、彼が誘うのは、ワルツとかタンゴとかの社交ダンスだったんです。

私はけっこうのめり込むタイプだから、しまいには夢中になって、コザにあるダンスクラブなどで社交ダンスの先生になっていました。これは高校の三年ぐらいのことです。バイトで、今でいえばインストラクターのサポートみたいな感じで、女性を相手にして踊っていました。

□オユキと絵描きを競って また、私は絵が上手いんですね。幸雄も人物画が上手くて、最初は私が「ウレー、チャン・ニー・サーニ・スガ(これはどんなしてやるのか)。この写真のこの小さな顔をヌーガ・ウッピナー・ムルン・カイ・カチユ・スル・ヤーヤ(何で大きなものにして描けるわけお前は)」と幸雄に聞くと、幸雄が「カッちゃんヤー・ワカラン・ラヤー。ウレー工業高校シーシ・カ・ワカラン・ヨー。計算がアンバー・テー、ウヌ写真アシェー・ヤー、ウマ・ハカイ・ン・バー・ヨー、何センチ何ミリまでハカイ・ン・バー・テー、碁盤型にスン・バー・ヨー。囲碁の碁盤みたいに正方形サーニ・テー、アンシーネー・テー、ウリ・ヨー(カッちゃん、お前にわからないだろう。これは工業高校生にしかわからんよ。計算があってね、この写真があるだろう、ここを測るんだよ、何センチ何ミリまで測るわけさ。碁盤型にするわけよ。囲碁の碁盤みたいに正方形に線を引いて、そうしたら、これを)これくらいの壁にそっくり同じようにこれを増幅したいためには計算方法がアンバー・ヨー(あるわけよ)と教えてもらって、「ウリヒャー、トォー・アンシェー・ウリ・ハカレー。何メーター何センチ・アガ(ほら、よしそうしたらこれを測ってみろ。何メートル何センチあるか)と測らされたんです。

私は「ヒー、マジ・ウングゥ・トゥー・サーニ・シ・シムン・バー(へえ、まずこんなにしてやっていいうのか)」と感心していると、幸雄が「アンサー・ニ、エー、沖縄の地図ヤティン・イームン・ドー(それから、おい、沖縄の地図でも同じだよ)。こういう小さな沖縄の地図をこれぐらいの大きさに引き伸ばすときには同じ」というので、私は「あっ地図カケー・カラ、アンシェー・チュヌ写真も描けるヤッサ・ヤー(地図が描けるんだったら人物の写真も描けるよな)」といったら、幸雄も「ヤン・ドォー・ンレー(そうだよ)」といってくれました。

そして「計算がわかったらヤー・ウリ・カケー(計算のやり方がわかったのならお前これ描いてみろ)」といわれて、アメリカの映画俳優のプロマイドをみて描いてみることになって、私は「お前はオードリーヘップバーンか、俺はジョンウェイン描こうかなー」といって描いてみたんです。

私もある程度絵を描けるようになったら、また二人で「トォー・トォー・トォー、アンシェー・スーブ・サヤー(よしよしよし、それなら勝負しようぜ)」となったわけです。

こうして私たちの絵が腕前が上達してきたとき「テーゲー・スッサー、マキラン・サー。エー、リカ、国映館ヌヨー映画ヌ看板カチャー・ガ・アシェー、リカ・アマンジ・ンラ。ワッター・シーカタ、マチガ・トール・トゥクマ・アイガスラ・ワカラン(なかなかやるな、負けていないよ。おい行こう、国映館の映画の看板描くところがあるだろう、さあ、あそこに行ってみよう。俺たちのやり方間違っているところがあるかもしれないから)といって、また二人で国映館やグランドオリオンまで行って、「これ(看板)どこで描いていますか」と聞くと、「あそこにあるナンミン(波之上)のところのむこうで描いていますよ。で、むこうから運んで来てここでかけるわけ」と教えてもらって、「ああそうですか」といって、それで私たちは「教えてください」ということでそこまで行って、現にその人たちが計算して描いているのを見に行ったわけです。

でも、むこう(看板書きの世界)もまた先輩後輩の上下関係があって、壺屋焼きでもろくろの土を一年から三年ぐらいさわれんっていうさ、それみたいに看板屋の下っぱがこうしているわけよ、「君ね、これ志望なのこれ」と聞くと、彼は「絶対描かせてくれないんですよ」というんです。また「描かせるまでにどれくらいかかるの」と聞くと、「二、三年ぐらいウヌ・シグトゥ・ビカ・・ソーシガ・ワンネー(この仕事ばっかりしているんだよ俺は)」と彼がいうものですから「ハーヒャー(とんでもない)、アンシェー滅多にヤー・カチユー・サン・バー。アンシェー・ワッター・ガイレー・カラ、アンシ・ワッター何年サーニ・カチユー・スガ(それなら滅多にあなたは描けないわけなの。では俺たちがこの仕事に入ったとしたら、それで俺たちは何年ぐらいで描かせてもらえるか)」と聞いてみると、彼が「今から入って五年後にやっと描かすはず」というので、「五年ナー、やーめた」となったんです。私はこれ(映画の看板書き)をやってみようと思うぐらい絵が好きだったんです。(続く)

SNSでもご購読できます。