平成30(2018)年10月14日、沖縄タイムス29面

平成30年(2018)年10月14日の沖縄タイムスに掲載されていた太田朝敷関連のコラムを掲載します。著者の伊佐眞一さんは『太田朝敷選集』の編集者でもあり、それ故に当コラムも実に読み応えのある内容となっています。沖縄タイムス購読者が好みそうな内容でまとめ、なおかつ太田先生の経歴を上手に紹介しているあたりはさすがの一言でブログ主も大変参考になりました。全文を書き写しましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。

沖縄の統一 強く訴え

太田朝敷(言論人・政治家)-  歴史を刻んだ沖縄人(ウチナーンチュ) ⑦ 伊佐眞一

かつて新聞は社会の木鐸だと言われていました。社会に警鐘を鳴らし世人を教え導くとの意味ですが、太田朝敷さんほど、この言葉にピッタリな人はいないような気がします。

太田さんは1865年に首里で生まれ、沖縄県立師範学校を卒業して学習院と慶応義塾に学びます。福澤諭吉の影響があったらしく、1893年に沖縄で最初の新聞、琉球新報の創刊に加わります。彼が書いたものは大変な量にのぼりますが、その中心をなすのは日本国家に入れられた沖縄が当然に享受すべき待遇を得て、他府県と実力をもって一線で伍することでした。若い頃の太田さんは沖縄人としての自意識が強く、それを侵害されることに人一倍敏感で、戦闘的でさえありました。彼のプライドが許さなかったのです。

太田さんの活動は、新聞記者のほかに砂糖会社社長が県会副議長、首里市長など多岐にわたっていて、この小文ではいわば群盲象を撫でるようなものです。それでも彼を語るときに、真っ先に出てくるのは、たぶん「クシャミ発言」でしょうか。クシャミまでヤマトゥンチューの真似をしろ、と高等女学校の開校式典で言ったものですから、のちのちまで多方面に拡がり、戦後の太田さんを一躍悪名高くした言説です。その真意は、日本人との社交を手っ取り早くなすには、ヤマト流の表面的習俗は正否を考えずに採れとの意味でした。当時の沖縄社会を思うと一理ある意見ではあるものの、沖縄の根をしっかり自覚していないと、ヤマト化→皇民化→日琉の主従化関係に陥りかねません。現在にも通ずる問題です。

その太田さん、仕事に必要があったとはいえ、文字通り沖縄中を歩きまわりました。いまと違って交通の不便なヤンバルの寒村も、じつにこまめに訪ねて民衆の生活を写し取っています。彼の「沖縄県民勢力発展主義」は、農村の事情を知ったうえでの沖縄自立論だったわけで、そのためにも沖縄全体の「統一力」が何よりも肝心で、そのことを「筆がちぎれる程かき、舌が爛れる程云ふた」と述べています。沖縄がひとつになってこそヤマトに対し大きな力を発揮できるのだと、一世紀以上も前に強く訴えていたことになります。

亡くなったのは、日中戦争が泥沼化していた1938年です。小さい頃から家庭的には恵まれなかったせいか、親鸞に私淑した後半生は社会的な名利に無欲恬淡。しかし他方では蔡温に深い関心を向けつつ、組踊や琉球古典音楽を愛した、まさに沖縄ナショナリストでした。(沖縄近現代史家)

年譜
1865年 首里山川に生まれ、その後伯父の養子となる
1879年 日本による琉球武力併合
1882年 沖縄県立師範学校を卒業し、第1回県費留学で東京へ
1893年 尚順らと琉球新報を創刊
1897年 尚家から県知事を出す公同会運動に参加
1899年 憲政党に入党し、謝花昇らと対立
1900年 クシャミ発言をなす。崎間マカト、音子と同居
1902年 日英同盟で日本は一等国になったと誇る
1903年 人類館の琉球人展示を批判
1904年 日露戦争に全面協力
1913年 上杉慎吉東京帝国大学教授を批判
1916年 沖縄県会副議長
1919年 又吉康和らと沖縄時事新報を創刊
1920年 3番目の妻・貞子と南陽旅館を営む
1925年 布哇沖縄海外協会の招きでハワイ
1929年 琉球新報社長と無報酬の首里市長を兼任
1932年 『沖縄県政五十年』刊
1938年 心臓麻痺で死去(73歳)

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