新城喜史さんとはこういう人なんだと思った件 – その2

今回は新城喜史さんのエピソードを紹介します。前回の記事で那覇市の繁華街で暴れた挙句に国外に逃亡したお話を紹介しましたが、今回も負けず劣らずのやらかし話ですので、読者のみなさん是非ご参照ください。

その前に彼のフルネーム(漢字)ですが、当時の新聞を参照すると「義史」「義文」あるいは「喜史」と記載されています。いったいどの表記が正しいのか気になりますが、昭和49(1974)年10月の新聞紙上に掲載されたお悔やみ欄には”新城喜史”と表記されていましたので、当ブログにおいては”喜史”と記載します。

昭和38(1963)年10月21日、米国民政府高等裁判所において又吉世喜殺害未遂事件の審理が行われました。その際の検察側証人尋問で、

1、コザ派内で”極南会(きょくなんかい)”という組織をつくった。その組織内で実権を握っていたのは新城喜史である。

2、又吉殺害は”組織の決定”であること。本土からの殺し屋は新城が連れてきた。

との重大証言が飛び出しました。”極南会”については後日言及しましたが、これら証言が出た後の同年10月28日の第七回公判で新城さんが派手にやらかします。記事全文を書き写しましたのでご参照ください。

法廷内で刑事脅迫 民政府裁コザ派暴力団の新城

公判中のコザ派新城義史〔喜史〕(三四)が、二十八日民政府裁判所内で那覇署の刑事を脅迫した。同署では新城を「証人脅迫」で提訴するという。

二十八日午前十時半ごろ、休廷中の法廷内に立っていた那覇署Y部長刑事の手を新城がつかみちょっと外にでてくれと裁判所前の庭まで引きずり出し「こんどの裁判で仲里昌和(なかざと・まさかず)とあなたが結束してボクをコザ派の幹部にしたてたのだろう」とおどしたもの。新城とY刑事のようすがおかしいと気付いた糸満署刑事がかけつけ、新城をつれもどそうとしたが、Y刑事の手をつかまえ「まだY刑事との話しが残っている、話させてくれ」といったが、数人の刑事でやっと新城を法廷内につれもどした。

那覇署Y部長刑事の話 こともあろうに法廷内で刑事をおどすとはおどろいた。公正な裁判もあったものではない。私の長い刑事生活でもはじめてだ。証人脅迫で提訴するつもりでいる。

引用:昭和38(1963)年10月29日付琉球新報7面

出典は忘れましたが、「ヤクザの世界で生き残るのは本物のバカか利口者かのどちらかだ」と聞いたことあります。ブログ主はこの新聞記事を読んだときに

新城さんは本物のおバカだからアシバーの世界で大成した

と確信しました。そして「バカは長生きできない」という格言はホントなんだと実感した次第であります(終わり)。

 

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