日常生活には役に立たない沖縄ヤクザ・トリビア

今年は我が沖縄が本土に復帰して50周年の節目にあたります。それに関連して本土の組織暴力団(山口組)の沖縄進出について調べつつ、これまで蒐集したヤクザ関連の史料を整理したところ、興味深い事実を再発見することができました。

今回はその中から “日常生活には役に立たない沖縄ヤクザ・トリビア” として紹介します。当ブログ開設から今年5月で6年を迎えますが、読者からの沖縄ヤクザ関連の記事に対する期待度の大きさを実感しつつ、今回も厳選した史料から記事をまとめてみました。読者のみなさん、是非ご参照ください。

・沖縄ヤクザ史上、最初に新聞デビューした人物は喜舎場朝信(昭和25年10月14日付うるま新報)。そのときの記事の題字は “女給を蹴殺す / もと暴力團頭目の兇劇”

・この事件は那覇市内の旅館で仲間とビールを飲んでいた喜舎場さんが知り合いだった女給さん(21)と口論となり、そのはずみに蹴りを入れ、彼女がショック死したという内容。後日のうるま新報で「なぜ女給は死んだのか」という特集記事が組まれるほど、世間の耳目を集めた。

・昭和26年(1951)12月に、宜野湾村普天間(当時)で19歳の青年が「元AJカンパンの喜舎場だ」と偽って脅迫・窃盗事件を起こしたことがある。

・沖縄ヤクザ関連の人物で、新聞デビューした順番は、2番目が上原勇吉、3番目が岸本建和・金城義秀(今帰仁ヒデー)、4番目が又吉世喜(スター)、5番目が瀬長増吉(後の沖縄連合旭琉会理事)。

・岸本建和は、後に宮城憲和と名乗り、旭琉会の2代目を継ぐ手前まで上り詰めた。

・そのほかの人物は昭和37年(1962)あたりから続々と、新聞紙上で全琉デビューを果たす。

・琉球警察が那覇派とコザ派の存在を意識し始めたのは昭和36年10月ごろから。

・ちなみにその時の琉球警察那覇署長は新垣淑重氏で、現職の沖縄県会議員の新垣よしとよさんの叔父である。

・昭和37年1月には糸村直亀、喜屋武盛晃、喜屋武盛一、糸数宝昌ら “コザ十人シンカ” の面々や、嘉手刈文一、仲宗根善村、田場盛孝あたりが新聞紙上で全琉デビュー。ちなみに上原兄弟の秀吉は昭和37年3月、桜坂乱闘における傷害容疑で逮捕された記事が初登場。

・新城喜史は確認できる限り、昭和37年1月25日付琉球新報で全琉デビュー。この時に昭和36年9月の「西原飛行場事件」が世間に知れ渡ることになる。

・昭和37年当時、多和田真山は栄町のチンピラでコザ派に所属。同年1月16日に又吉世喜宅に「那覇派に鞍替えするよう」仲間3人とともに拉致監禁された事件で全琉デビュー。

・以前、当ブログでも紹介したとおり、多和田は同年7月に殺人事件を起こして刑務所に収監。復帰当時は刑務所で過ごし、73年に出所。その後、喜舎場朝信や仲本善忠、又吉世喜らに気に入られて旭琉会での地位がトントン拍子に上がっていく。

・昭和37年4月28日に、那覇市波上の料亭 “ひさご” で那覇派とコザ派の手打ちの宴会が開かれた。その場に田場盛孝(那覇派→普天間派)も同席している。

・ちなみに田場と喜舎場の仲は常に険悪で、喜舎場は又吉のことをすごく気に入っていた。

・沖縄ヤクザ関連の人物で、警察官に対して発砲した最初の人物は金城春夫さん(後の沖縄旭琉会金城一家総長)

・照屋正吉さん(二代目旭琉会照屋一家総長)は昭和37年4月、外人住宅荒らしの容疑で金城春夫さんとともに全琉デビュー。警察官への発砲事件はその時に起こった。

・又吉世喜の弟世隆さんは、昭和37年ごろは砂利販売業を営んでいた。ちなみに彼は昭和36年6月に、前借金を踏み倒した女性をかくまったとされる男性を脅迫して、翌年4月に逮捕された案件で全琉デビュー。

・のちに又吉世隆さんは11社合同で設立した三和タクシーの初代社長に就任する(昭和43年)。その奥さんが去年3月に亡くなった又吉スミ子会長。(おわり)

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