歴史の用語について

令和2(2020)年11月15日付琉球新報1面に “首里城正殿、最古写真か” と題した首里城正殿の写真が掲載されていました。記事内容は写真内の大龍柱の向きついて言及していますが、じつはブログ主の目に留まったのがサブタイトルの “琉球併合前仏軍人撮影” です。

副題に “琉球併合” との文字があり、いったい何のことやらと考えたところ、この用語は明治12(1879)年の廃藩置県(琉球処分)のことを指しているのです。ちなみに琉球民族独立総合研究学会内で廃藩置県のことを “琉球併合” と称して議論するのは無問題ですが、県内一般紙の1面の見出しにその語句が使われていることには驚きを隠せません。

参考までに、故大城立裕先生(1925~2020)によると、昭和35(1960)年以前は明治12(1879)年の琉球王国滅亡のことを “廢藩” あるいは “廃藩置県” と称し、60年以降から “琉球処分” というワードが一般化したとのこと。共通点は明治政府の公式文書に記載されていた “用語” であることです。つまり 廃藩置県あるいは琉球処分などの歴史用語は “日本の為政者から見た事件” という意味合いが強いのです。

それゆえに琉球民族独立総合研究学会や琉球王国の廃止に反発する一部歴史家たちが “琉球併合” あるいは “廃琉置県” と言い換えたい心境は理解できますが、あまりにも “斜に構えすぎている” きらいいがあり、一般の沖縄県民に広く浸透するとは思えません。事実、琉球新報の電子版には紙面とは違い、“大龍柱は正面…首里城正殿、最古の写真か 琉球王国末期「1877年撮影」” との題字が付けられて、琉球併合の文字が削られています。

琉球新報社の真意は測りかねますが、ブログ主は歴史用語は慎重に扱うべきとの立場です。身内の議論における “造語” の使用は構いませんが、外部に対しては広く使用されている歴史用語に配慮する姿勢を見せて欲しいのです。歴史に限らず “用語” は、それなりの理由があって初めて一般に使用されているわけであって、ましてや歴史のプロであればそのことに対して敬意を持たなければなりません。それゆえ琉球民族独立総合研究学会に関わる人たちが “琉球併合” という造語を外部に対して平気で使用している点には物凄い違和感があります。

最後に、ブログ主は 琉球王国時代の版図あるいは現在の沖縄県全体を指す、いわば地域の用語として “りうきう” をよく使います。”琉球” が同じ意味で広く使われていますが、 “りうきう” はブログ主の造語ではありません。かつて王国時代に実際に使われていたのです。その証拠は下記引用をご参照ください。

一、大りうきう国中山王尚清は、そんとんより、このかた、21代の王の御位を、つきめしよわちへ、天より王の御名をは、天つき王にせと、さつけ、めしよわちへ、御いわひ事かきりなし(かたのはな碑)(右漢訳分、大琉球国中山王尚清、自従舜天降来、二十一代之王孫、天賜聖号、為天下王)

一、りうきうこくちうさんわうしやうねいは、そんとんよりこのかた、24代のわうの御くらゐを、つきめしよわちへ、うらおそひより、しよりに、てりあかり、めしよわちや事、てんより、わうの御名をは、てだかすゑあんしおそひ、すゑまさるわうにせ、てゝ御つけ、めしよわちへ、千万の御ゆわい事あり(浦添城の前の碑)

一見おちゃらけた表現を好んで使うブログ主も、歴史の用語に対しては最大限敬意を払っていることを追記して今回の記事を終えます。

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