平和教育について

先月17日の辺野古沖での転覆事故について、ブログ主はできる限り(地元紙中心に)関連する記事をチェックしていますが、「平和教育へ攻撃やデマ」と題した沖縄タイムスの記事(令和8年3月19日付沖縄タイムス24面)が指摘するように、SNS上では平和教育に対して(誹謗中傷とも取れる)厳しい意見が飛び交っています。

たしかに沖縄の平和教育の現場は “公平さ” に欠ける部分があります。たとえば普天間基地の辺野古移設問題に関しては反対派だけでなく、賛成の住民もいますが、実際に学習現場では「沖縄の声」として賛成派の意見を学ぶ機会は(ブログ主が知るかぎり)見たことありません。つまり論併記で学ぶ場を設けていないため、「偏向である」との指摘は一見ごもっともに思えます。

それでもブログ主は我が沖縄における平和教育を否定する気にはなりません。「辺野古新基地反対運動」に象徴される “沖縄の声” はあくまで “理念” であり、沖縄の現実をすべて代弁している訳ではないからです。(彼らの訴えは)一つの模型(モデル)と言ってもいいかもしれませんが、かつて平和教育の現場を数多く見聞したブログ主からみて、教育現場において「〇〇だけが沖縄の声である」と主張する輩は一人もいませんでした。

さいころの目にたとえると「このさいころの目は1である」と教えるのはOKですが、「このさいころには1の目しかない」と教えるのはアウトです。そしてブログ主が知る限り(修学旅行などの)平和教育の現場ではこの最低限のルールは守られているのです。だから否定する理由はありません。

繰り返しますが、平和教育の現場における「沖縄の声」はあくまでモデル(模型)であり、沖縄社会の現実をすべて反映するものでもなく、県民の総意でもありません。さいころの目には2や3,あるいは6の目もあり、平和教育の現場ではたしかに他の目を確認する方法は教えていませんが(だから公平さにかける)、それでいいのです。社会にでればいやというほど現実を思い知りますから。そのときはじめて「あのとき受けた平和教育」について再考すればいいだけの話なんです。

もうひとつブログ主が修学旅行における平和教育を否定しない理由として、(平和教育を)企画する側は “ある種の答え” を期待して教育の場を設定します。それに対してむやみやたらにに反発せず、大人たちの本音を察知して “最適解” を出す作業の場として平和教育はうってつけの場だからです。そういうケースなんて社会に出たら嫌と言うほど経験しますから、10代のうちにシミュレーションしていたほうがいいに決まってます。

以上が平和教育に関するブログ主の “お気持ち” ですが、辺野古沖の不幸な事故によって我が沖縄における平和教育の現場が萎縮するのではとの懸念は当然あるでしょう。平和を訴える場で犠牲者が出たのでやむを得ない部分はありますが、ブログ主は影響は限定的だと判断しています。というのも、今回の事故は「学校直手配」の弊害がもろに出た感があるので、修学旅行の全旅程を旅行会社が手配すれば十分対応でき、そして行政がその方向に動くことは容易に想定できます。つまり今後はグレーな現場には生徒を派遣しない動きが加速するわけです。

ただひとつ残念はのは、平和教育の現場において

平和を訴える人物の品格

が全国レベルで晒されてしまった件はしばらく尾を引くでしょう。こればっかりは現場でなんとか対応してくれることを願いつつ、今回の記事を終えます。