沖縄歴史散歩 / 第2部 大和化と創造 / 近世の社会と人間

武士道のない国 武器としての刀剣を全然もたなかったかというと、そうでもないらしい。蔡温の『蓑翁片言』に、若侍が訪ねてきて家宝にしている「利剣一口」の自慢話をしたということが書かれている。この若侍にたいして、「世伝ノ大宝ハ唯ダ汝ガ見コレナリ、何ゾ日ニ其身ヲ拭カザルカ」と戒めたというのが、話のしめくくりである。

剣を尊んだ人もいたが指導的な人材はこれを否定した、という風に読むことが出来る。もう一つの例は「黒金座主」の伝説であって、妖術をつかう妖怪坊主の耳を北谷王子が腰刀でもって削ぎ落としたことになっている。これにまつわる子守唄があって、

大村御殿の門なかい、耳切り坊主の立つちょんどう

と唱っている。ただ、刀剣所有が一般的な慣例としてなかったということは、言えるだろう。士族の家の床の間に刀剣を飾るという習慣がないし、刀剣甲冑の類が美術品として現代に伝えられていないことは、それを物語る。士族の家の床の間には、三味線が飾られた。芸能の嗜みは近世士族で尊ばれたものであるが、それは武器を嗜まないことと相伴うものであった。

芸能といえば、琉球舞踊に武断的な味わいはない。これは私の主観的な鑑賞によるものだが、日本の能がいかにも武断的な雰囲気にみちたものであるのにくらべて、きわめて対照的な違いである。琉球舞踊はもともと神遊び(神前の宴)からきたものであろうが、近世になって能の影響をうけたといわれる。部分的な所作に影響を受けたのだろう。基本的な雰囲気はどうも違うようである。男踊でも、男性的な荒さ、強さ、厳しさからは縁遠い。およそ女性的なやさしさに包まれたのが琉球舞踊である。武家社会が育たなかったことと無関係ではあるまい。ただ単純に因果関係で結びつけるのは早計であろう。おそらくは独自の文化パターンから同時的におこった歴史と文化との現象であるのかも知れない。

武器が常用されなかったから空手が発達した、と考えるのは自然な事であろう。ただし、それも攻撃手段としてよりは防衛と精神修養の道として尊重されている。

以上みてきたように、近世琉球王国の、日本のそれにくらべての著しい特徴は、武士的社会がないということであるが、ここで一つ疑問がおこるのは、琉球古典組踊にどうして武士的社会のテーマが多いのか、ということである。組踊という演劇様式のおこりはよく分かっておらず、これまでの言い伝えでは18世紀、尚敬王代に踊奉行をつとめた玉城朝薫がはじめた、ということになっていたが、発生としては本当はもっと古く、ただ様式として完成したのが右の年代であろうということが、最近になって論じられている。今日残っている文献の範囲では、作品としては玉城朝薫の5番(『執心鐘入』『二童敵討』『銘苅子』『女物狂』『孝行の巻』)が最も古く、前2作の上演が1719年(享保4、康熙58)である。その語50年ほどのあいだに書かれた組踊作品が今日50編ちかく発掘されているが、その半数以上が武家社会をテーマにしたもので、仇討や妖怪退治、お家騒動のたぐいである。もちろん刀を振りまわしての立ち回りがある。武家社会倫理のなかったはずの社会に、どうしてこのような作品が書かれたのか。

私の推論を書いておきたい。これらの作品は、まず、書かれた当時においてすでに現代劇でなく時代劇であった。ドラマの題材というものが古くは神話、伝説のたぐいに求められたというのが、洋の東西をとわず一般的であったが、組踊の場合も例外ではない。朝薫の5番はたしかにそうで、伝説のなかに高い文学性を創造しえた例になっているが、他の作品にも伝説をふまえたものがあり、あるいはいかにも伝承があったかのように、うまく創作されたものがある。いずれにしても、古琉球のアジ時代を背景としている。ところで、ドラマとは対立の世界である。そして、作劇術において能や歌舞伎、中国の京劇から学んだところは多かろう。その場合に、武家社会的風景を抜きにした対立ドラマをつくることは困難であったに違いない。しかも、武士的に高揚した忠節倫理は育っていなくても、忠や孝という倫理は、観念として輸入され、一種の美的情緒をさそうに都合のよいものであった。こうした条件がないあわさって、あのような戯曲群が書かれたものと思われる。

それにしても、組踊に登場する武士背景は、やはり武断的なきびしさを欠いたものといわざるを得ない。刀を振り回しはしても、血なまぐさい感じはなく、単なる様式美におわっている。『二童敵討』などは、悪名高い亜麻和利を護佐丸の遺児たちが仇を討つ筋書きになっているが、この亜麻和利は遺児たちが芸人に身をやつして眼の前で舞ってみせると、男色的な興味さえ示して、腰の物を着る物も褒美に与え、丸腰になったところを、正体あらわした二童に討たれるのである。いかにも他愛なく、武断的人物からは遠い。親子、男女の情を描いた作品のもつ哀切な世界の深さにひきくらべ、何ともリアリティーにとぼしい武断世界だ。

武家社会が育たなかったことに伴って、やはり育たなかった階級が2つある。

生まれなかったヤクザと賤民 その一はヤクザ=侠客である。日本で侠客という階級が生まれたのは、やはり徳川時代だといわれるが、その誕生の論理は次のように考えられている。

1 身分差別がきびしくて、百姓はどれほど実力があっても侍になれない。百姓仕事ばかりしていることに倦怠する。そこで腕っぷしの強い者が刀を振りまわすヤクザになる。いわばサムライ幻想にひたる志向である。

2 働かずに食おうとすれば、強奪、弱い者いじめ、博奕を事とするようになる。博奕は貨幣経済を基盤として、捲きあげられる相手を必要とする。発達した商業社会はその相手であった。上州や清水などに力ある侠客(国定忠治、清水次郎長など)が育ったのは、そこに力のある商人が多かったことを意味する。

3 ヤクザになれば、村落共同体社会から爪はじきにされる。そこでハミダシ者だけが集まって、ヤクザだけのグループ社会をつくる。その縄張りのことを、ヤクザたちはシマと称した。

右の3条件のどれも、琉球では育たなかった。

まず、侍の象徴としての武器が常用されなかったのであるから、サムライ幻想の育てようがなかったであろう。身分差別がきびしくなかったわけではないが、職能に近い侍らしさ、百姓らしさというものがないから、ハミダシがそれほどの意味をもたなかったに違いない。逆にいえば、シマ降りは士族からのハミダシであるが、それが可能であったということがそもそも、形の上での身分区別がそれほど意識されなかったということだと思われる。さらに考えれ場、琉球方言で「ブシ」というのは、士族階級のことでなく、腕っぷしの強い者、空手の心得のある者のことを指す。階級のことでなく能力のことなのである。武士という語の原意が生きているわけであり、これが職能に発展しなかったために、原意が生き残った者であろう。ついでに言えば、士族を指す語に「ユカッチュ」「サムレー」と2つある。前者は「良人」、後者は「侍」と当てることができる。いずれにも武力の意味はこもっていない。「侍」でも、もとはかしづく、はべることであり、その原意通りの言葉が琉球社会には生きつづけたのである。

第2の条件の貨幣経済が、やはり育たなかった。捲きあげられる相手がいないことには、博奕も発達しようがないのである。貨幣の流通状況については、じつは研究がよく進んでいないが、たとえば遊郭が発達したことを考えると、まさか遊郭に大根をさげて遊んだとは考えられない。士族の交際は多くが遊郭でおこなわれたというから、貨幣流通もそれほどのことはあったであろうと考えられる。博奕もある程度はおこなわれたであろう。ただ、それが1階級の生活を支えるというまでに至らなかったと、これはひとつの想定に過ぎないが、言うことはできよう。

第3の村落共同体からのハミダシ。これがどの程度に可能であったか。これには地割制度が関係するだろう。地割制というものは、百姓地と規定された公有地を世帯の労働力に応じて割り当てて耕作せしめるものだが、耕作権を有したというより実質的には耕作義務を課したものと見たほうがよさそうだ。村(部落)の百姓地の生産力に応じて、貢租を村全体の連帯責任で負わされたから、労働力の確保は重要なことであった。法的にも他間切への移転は禁じられていた。このような社会で、ハミダシというものは当然に可能性が薄かったものと見なければなるまい。

育たなかった階級のもう一つは、賤民=未解放部落民である。日本におけるこの階級は、これも封建制下において武士が農民を搾取する上で、農民に意欲を失わしめないために、農民よりさらに劣等なる階級があると擬制的につくられたものだと、説明されている。その設定が特定の職能にたずさわる人たちの上に置かれた。これが琉球にあらわれなかったのは多分、第一に搾取という状況が比較的に薄かったせいだと思われる。百姓一揆がないという事情のところでも説明したように、幾分か神への捧げ物的な意識が残存して、無理に農民をなだめるという必要がなかったのだろう。第二に職能階級が発達しなかったために、擬制の設定が難しかったと思われる。

ついでながら、沖縄では「部落民」という言葉が、その本来の意味でのみ用いられてきた。本土でこれが「未解放」という修飾被差別語を略したつもりで用いられていることには、むしろ沖縄の側で違和感がある。沖縄で「部落」「部落民」という言葉は差別語だからむやみに使うなといわれても困るのは、そのせいだ。そして、さらに一つの特殊事情がある。それは村落と行政との関係からくる。古琉球から近世まで集落の最小単位は「ムラ」であった。そのなかに根神がいた。近世期には、行政の都合で「ムラ」を幾つかあわせて「間切」とした。これは文字通り空間を切ったにすぎないのであって、民俗的に自然にしあがった社会ではない。近代になると、「間切」を「村」とし、「ムラ」を「字」とした。間切の「地頭代」が「村長」、ムラの「村掟」が、この場合は字長とはいわず「区長」とよばれるようになった。民衆生活のなかで区長はかなり密着したものだが、村長は縁遠いものだ。いきおい、生活語として昔の「ムラ」に相当する語が多く使われることになるが、「字」とは行政用語にすぎす、「字民」にしてもやはりそうだ。どうしても「部落」「部落民」としないとすわりが悪いような、感覚上の必然性がある。差別用語うんぬんされても、もともと歴史的にそのような差別の経験のない民衆の意識としては、まさしくキョトンとするようなことがある。私などは、できるだけ「集落」「村落」などを使うように心がけてはいるが、「集落民」「村落民」とするわけにいかず、「村民」ではやはり意味が狂ってくるのである。「部落民」という言葉が本来の限定された意味をはやく取りもどすようになってほしいと、これは沖縄の歴史のなかで生きてきた者の、日本社会における切なる願いである。

引用元:大城立裕著『沖縄歴史散歩』122~129㌻

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