“沖縄連合旭琉会” の登場

今回はひさびさに “沖縄ヤクザ” に関する記事を提供します。ブログ主は新聞を中心にヤクザ関連の史料を精力的に蒐集していますが、印象的なのは、アメリカ世の時代においては質量ともに琉球新報の記事が沖縄タイムスを圧倒していることです。

特にスクープ関連は琉球新報の独壇場で、昭和40(1960)年9月4日から計15回にわたって連載された特集記事『組織暴力』を始め、貴重な記事が数多く掲載されています。今回はブログ主が蒐集した史料のなかでも、当時の琉球新報のすごさを実感した記事を紹介します。

それは昭和46(1971)年6月13日付琉球新報13面で、この日初めて新聞紙上に “旭琉会” の文字が登場します。この記事の何が凄いかと言えば、旭琉会の誕生の経緯だけではなく “バッジ” の写真が掲載されているのです。

本土組織も沖繩潜入ねらう

地元の組織暴力団はいま本土復帰を目前にして組織の再編成にとりかかっている。経済界が合併統合あるいは本土の業界と系列を図り復帰に備えるように、暴力団の動きもしだいに活発になってきた。山原派と那覇派が合併してつくった新組織「沖縄連合旭琉(きょくりゅう)会」の登場もその1つで、すでに解散した元泡瀬派や普天間派の組員を入会させ、組織の拡大を図っている。本土の組織暴力団も沖縄潜入を計画、スキをうかがっているといわれ、これから暴力団同士の “なわ張り争い” が激化することが予想される。警察は旭琉会の動きを “挑戦” とみて、情報集めを強化するとともに、取り締まりをきびしくし “壊滅” まで追い込むといっている。(下略)

ちなみに6月上旬までは、沖縄ヤクザ関連の記事は “山原派” や “那覇派” あるいは “東声会” として記載されていましたので、同月13日をもって歴史上はじめて “旭琉会” の文字が新聞に登場したわけです。参考までに同月の沖縄タイムスもチェックしてみましたが、旭琉会誕生に関する記事は掲載されていませんので、やはり当時は社会事件に関しては琉球新報の方が一枚も二枚も上手だったことがわかります。

ところで琉球新報社はなぜこれほどまでに沖縄ヤクザの情報に詳しいのか、具体的には “ニュースソース” は誰なのか気になるところですが、誤解を恐れずにはっきり言えば、

琉球警察と “つうかあの仲” だった

からアングラ系に詳しいのです。ブログ主は琉球・沖縄の歴史初の沖縄ヤクザ特集記事『組織暴力』を読んでこの点に気が付きましたが、今回の旭琉会誕生の記事をチェックしたことで確信に変わりました。参考までに記事全文を書き写しましたので、読者のみなさん、是非ご参照ください。

暴力団 組織拡大にやっき

ナワ張り争い激化か / 警察 / 撲滅まで追い込む

地元の暴力団と本土暴力団の系列化の動きが出始めたのは昨年。警察本部の暴力団取り締まり班は系列化の動きを重視し、情報収集に乗り出した。その矢先「本土で広域暴力団としてマークされている山口系の組員が、沖縄にたびたび来ている」との情報がはいった。

最初、捜査班では復帰の時点で、山原派が本土の本多会と、那覇派が山口系にそれぞれ系列化するのではないかとみられていた。同捜査班は、本多会には郷土出身の瑞慶覧長康という幹部がおり、山原派と以前から友好関係を結んでいたことから、そのようにみていた。

それが昨年末からにわかに本土暴力団との系列化よりも、地元の組織を固める方向に動き出した。 “本土勢に踏み込まれてはモトも子もない。地元のなわ張りは自分たちで守ろう” というわけだ。

山原派と那覇派の話し合いが進み、ついに昨年12月25日「旭琉会」が結成された。その裏には大阪にアジトを持つ港湾暴力団「澄田組」の口添えがあったといわれる。同組の下部組織である「藤井組」には、久米島出身の福里長晃という幹部がおり、彼が山原派の幹部と話をつけたという。そこで、山原派が那覇派に話を持ちかけ、合併に踏み切ったといわれる。

山原派と藤井組の福里との関係は、山原派の幹部が本土へ高飛びした際、かくまってもらったのをきっかけに親しくなったと警察へはみている。”旭琉会” はさる3日に那覇市内の宴会場を貸し切って、初めての総会を開き、4か条からなる会則を決め、会長の下に理事2人、副会長2人を置いてスタートした。

総会には山原、那覇両派組員およそ500人が詰めかけ、旭琉会のバッジも配られた。総会に間に合わせて2日前に澄田組から代表10人が派遣されていた。

その中に澄田組の若衆頭、橋本実もおり総会場であいさつし “友好” をちぎったともいわれる。警本の情報によると、旭琉会の初代会長には山原派の仲本善忠が選ばれ山原派の幹部・新城義史と那覇派の幹部・又吉世喜の2人が理事におさまっているという。

副会長には山原、那覇両派からそれぞれ1人ずつ選ばれるといったように “派閥均衡人事” を形成している。しかし捜査班では、役員の配置から山原派が主導権を握っているものとみている。

バッジは純金、張り金、銀の3種類にわかれ、純金は幹部、張り金は中堅幹部、銀が一般組員用と階級によって “格差” がつけられている。バッジのデザインは三つどもえの中に旭琉会の “琉” の字が浮き彫りにされている。

捜査班でも旭琉会の実態についてまだ把握していないが、中、南、北部と宮古、八重山にそれぞれ支部を持っているようだ。捜査班では旭琉会のこのような動きは “警察に対する挑戦” とみている。それに旭琉会とは別の組織である「東声会」では、山原、那覇両派の組織強化を横目に、独自の組織固めを進めているといわれる。(昭和46年6月13日付琉球新報13面)

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