たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その3

(続き)前回の記事で、玉陵に関する矛盾についていくつか言及しましたが、大雑把にまとめると、

① 『球陽』などの史料には、玉陵には先王(尚円)の霊骨を移葬したと記載されているが、その理由については明記されていない。

② 改めて尚円王を追悼する施設を建てる理由が見当たらない。見上森の陵にトラブルが発生した歴史的事実は確認できない上に、1494年に菩提寺として円覚寺を建立したばかりである。

③ 仮に先王の追悼施設なら碑文は「祝辞」になるはず。

そして、何よりもあり得ないのが、王家に内紛があったことが伺える文面を碑文として、しかも王の署名をもって残した点であり、もしもそれが事実なら、尚眞王は単なるバカであり、巷に伝えられてきた “英主設定” と真っ向から対立します。

実際に、この碑文が一因となったと思われるトラブルが尚清王時代に起こっているのです。尚眞王が薨じたあと、後を継いだ尚清王が1528年に明国に対し冊封を請うたところ、明国側から「奚斉(けいせい)を以て申生(しんせい)を奪うことを恐れ、また牛を以て馬に変えることを恐れ(以下略)」と難癖をつけられ、尚清王が正統な後継者なのかの調査をりうきう側に強要します。

【補足】明側は、春秋時代の晋の献公の寵姫である驪姫(りき)が我が子の奚斉を献公の後継者にすべく、策略を用いて太子申生を自殺に追い込んだ事例と、東晋の元帝(276~323)は、愍帝司馬鄴(びんてい しばぎょう)と母の子ではなく、牛金(少吏)と母の子であったという伝説を挙げ、長男尚維衡(浦添朝満)が現存しているにも関わらず、五男の尚清が後継者となった不自然さを詰問します。それに対し、1531年にりうきう側は調査結果を報告していますが、その件は後日改めて言及します。

そのため、玉陵は先王の慰霊施設でもなく、それ以外の目的で建立されたと考えざるを得ません。では何の目的で作られたのでしょうか。「王墓として建てられた」とした場合、これまで言及した通りの矛盾が生じるわけですが、それらを解決できる唯一の回答は

玉陵は「おぎやか(御近)の墓」として建立された

ハッキリ言って、これしかありません。

つまり、(おぎやかさんの)個人墓であれば、彼女が嫌いな尚宣威の血を引く一族の遺骨を葬らないよう警告する碑文も理解できますし、玉陵の壮大さと、見上森の陵からわざわざ尚円王の霊骨を移葬した事実に、彼女の権威の凄さも伺えます。ただし、彼女は玉陵が建築された時期には、もしかすると何時亡くなってもおかしくないレベルで健康を損ねていたのかもしれません。

※『王代記』によると、彼女の死亡年は弘治十八年(1505)。

だがしかし、玉陵はおぎやかさんの死後、数奇な運命を辿ります。不可解なのが、王の御名をもって「たまおとんのひのもん」を残した尚眞王が、警告を守る気がなかったように思えるのです。

どういうことか説明すると、玉陵には、碑文に記載された一族の一部が葬られていません。『王代記』をチェックすると、尚龍徳(四男)、尚享仁(五男)、尚源道(六男)が「葬地不傳」と記述されており、それはつまり、彼らは碑文に背いて別の場所に埋葬されたことと、尚眞王あるいは尚清王がそれを認めたことを意味します。それと、真鍋樽(佐司笠按司・慈山)について言及しておきますが、彼女は(別の記事でも言及した通り)尚宣威王の次男に嫁いでいるわけで、そうなると玉陵に葬られる資格を失うわけですが、王はそのことを全く気にしていないのです。

しかも、尚清王に至っては、先王の礼を以て尚維衡(浦添朝満)の霊骨を浦添極楽陵から玉陵に移葬しているわけで、この事実から、尚眞王を始め、一族は最初から碑文を遵守する気はなかったのです。そして浦添朝満が移葬された時点で、玉陵はおぎやかさんの個人墓から、王墓として機能し始めたと看做してもいいかもしれません。

でも、その代償は大きかったのです。それはつまり、子孫の仕打ちに(地下の)おぎやかさんがガチ切れしたのは間違いなく、尚眞王の子孫たちに対し、

てんにあをき、ちにふしてたゝるへし(天に仰ぎ、地に伏して祟るべし)

の碑文の精神が全うされてしまったのです。おかげさんでりうきうの民は慶長の役以降、塗炭の苦しみを味わう羽目になるわけですが、それも尚眞王(とその子孫たちが)がママの言いつけに背いた報いかなと思いつつ、今回の記事を終えます。

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