琉米修好条約の顛末(上)

以前ブログ主は、安政元年(1854)にアメリカ合衆国と琉球王国との間に締結された「琉米修好条約」の記事を掲載しました。当条約は明治12年(1879)の廃藩置県によって失効扱いですが、明治5年(1872)における琉球藩の設置に伴い、アメリカ側から先年琉球王国と締結した条約を日本政府が継承し遵守するかを問い合わせる外交文書がありましたので、この場を借りて掲載します。

時系列順に史料を掲載します。先ずは明治5年(1872)9月14日の琉球藩に封ずる勅書から掲載します。

○此朝覲の日我國王を藩王に封ず勅語を國使に下渡せらる勅語左の如し(琉球見聞録より抜粋)

朕上天ノ景命ヲ膺リ萬世一系ノ帝祚ヲ紹キ奄ニ四海ヲ有チ八荒ニ君臨ス、今琉球近ク南服ニ在リ氣類相同ク文言殊ナル無ク世々薩摩ノ附庸タリ、而シテ爾尚尚泰能ク勤誠ヲ致ス、宜ク顕爵ヲ與フヘシ、陞シテ琉球藩王ト爲シ、叙シテ華族ニ列ス、咨爾尚泰其レ藩屛ノ任ヲ重シ衆庶ノ上ニ立チ切ニ朕カ意ヲ禮シテ永ク皇室ニ輔タレ欽ヨ哉

明治五年壬申九月十四日

次は同年9月28日の外務省通達です。琉球藩が諸外国と締結した国際条約が今後外務省で引き継ぐ旨明示されています。

○琉球藩(琉球見聞録より抜粋)

先年来琉球藩ニ於テ各国ト取結候條約並ニ今後交際ノ事務外務省ニテ管轄候事

明治五年九月二十八日

同年10月20日に在日米公使より、先年琉球国と締結した条約は日本政府にて引継ぎするのか?との問い合わせ文書です。

○米国公使の問い合わせ条

此頃日本政府ヨリ琉球島王ヘ辞爵・譲地を促サレ同人義、日本帝国中ノ大名ト同格ニ列セラレ・華族ニ叙セラレ候旨宣下有之候由、閣下ノ御シラセニテ承知仕候、然ハ之レヨリシテ琉球ハ、合併アラレテ日本国ノ一部ト相成候、就テハ、千八百五十四年第七月十一日ニ、亜米利加合衆国ト琉球国ヘ取結ノ規約ニ、閣下ニ注意ヲ乞ヒ申度、其為押印行条約ノ四枚目ヲ御覧可被下候、随テ、琉球国一円ノ総地境中、右規約ノ条目ヲ貴政府ニテ御維持被下候哉。

此段御伺候申進候 拝具

一八七二年(明治五年)十月二十日 シィー・イー・デロング

外務卿 副島種臣閣下

米国公使の問い合わせに対する外務卿の回答は下記参照ください。

琉球島ノ義ニ付、一八七二年十二月十日付ヲ以、御問合ノ書翰落手致シ候、同島ノ義ハ数百年前ヨリ我邦ノ付属ニ有之、此度改テ内藩ニ定ム迄ニ候、閣下御申越ノ如ク、我帝国ノ一部ニ候、故一八五四年七月十一日ニ、貴国ト琉球国トノ間ニ取極メシ規約ノ趣ハ当政府ニ於テ維持・遵行可致候義勿論ノ義ニ御座候、此段回答、敬具。

明治五年壬申十月●日 外務卿副島種臣 

米国公使閣下

上記文書は仲里譲著『琉球処分の全貌』からの抜粋で、同氏の解説も掲載します。

この際、一つだけ注意書きをしておきたいことは、米国は、琉球を日本の領有を肯定的に理解し、それならば琉球国と米国の結んだ条約を遵守するかという問い合わせである。仮に米国が、琉球は独立国であるから、日本がそれを領有(併合)することは不当であるとする意見ならば、米国は問い合わせ状ではなく別の外交文書になっている筈だ、という点である。

たしかに仲里氏のおっしゃる通りで、かつて米国は琉球王国を独立国とみなして国際条約を締結していますから、条約締結国に事前相談なく琉球藩を内藩扱いした場合は、外交文書は単なるお問い合わせではなく抗議文書になる筈です。もしも事前に米国に琉球藩の設置の内諾を得ていたならば、米国公使より上記のような問い合わせ文書は呈出される訳ありません

安政元年(1854)に米国が琉球王国と国際条約を結んだ理由はただ一つ「あわよくば占領して琉球諸島を太平洋の交通の要所として活用したい」意向があったからです。ただしその後の米国外交は日本との関係を重視し、相対的に琉球の戦略的価値は低下します。それゆえに明治5年の琉球藩の設置に対して米国はクレームを出さなかったのではと推測されます。この案件は悪く言えば「米国としては琉球に対する戦略的価値がなくなったので、独立国云々はどうでもいい。ただし先年締結した条約を日本が遵守すれば琉球を日本国の一部とみなしても外交上差し支えない」という態度そのもので、正直なところ国際外交の冷徹な一面を垣間見た気がしてなりません。

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