自滅の刃 – その2

(続き)前回の記事で鬼滅の刃の人気の秘密についての小学生女生徒の投稿に対する返信について言及しましたが、実はこの後も返信がありました。〆は2月1日付琉球新報8面に掲載された石原昌家さん(沖縄国際大学名誉教授)の投稿です。

参考までに投稿の流れを説明すると、小学生女生徒の投稿(1月12日)→先の投稿に対する返信(1月16日ティータイム)→16日の投稿に対する賛意(1月25日声の欄)→2月1日の石原さんの投稿になります。ためしに全文を書き写しましたので、読者のみなさん、是非ご参照ください。

声 2月 / ぬちどぅ宝の真髄 石原昌家 79歳

本紙1月25日付の「『鬼滅』礼賛に違和感」の投稿に刺激をうけ、沖縄国際大学生の言葉を紹介する。

ある年、期末試験問題とは別に、「平和について」の問いを予告なしに設けた。熟考15分ほど。採点時、「ぬちどう宝」の真髄の回答文に出会った。次のような文章だった。

「平和」。私はこの言葉がたいへん好きである。私は国を愛しているし、愛するものはここにはたくさんある。しかし、それを守るためには武器をもって戦うということは誤りだと思う。人を殺してまで、国を守る、愛する人を守るということはあり得ないし、それは大きな矛盾だと思う。たとえ、日本が、沖縄が、外国に侵略され、滅び去ってしまったとしても、歴史の上で「武器を持つのが嫌で、人を殺すのが嫌で、戦争をするのが嫌で、それでその国は、その国の人びとは滅びてしまった」ということになっても、それだけでも良いと思う。そんな国を私は死んでも誇りに思う。私は永遠に平和を愛する。

私はこの珠玉の名文を愛する。(那覇市、沖縄国際大名誉教授) (令和03年1月25日付琉球新報8面)

参考までに1月25日の投稿は以下の通りです。

声 1月 / 「鬼滅」礼賛に違和感  52歳男性

1月16日付本欄「ティータイム」の糸数剛さんの「『鬼滅の刃』の別視点」を読み、日頃から抱いていた国民的人気アニメ、映画に対する違和感の理由の一端に触れさせてもらったような気がした。

糸数さんも指摘しているが、「命をかけて戦う」ことをあたかも正義であるかのごとく描いていることだ。大切なものを守るため、刀を手にとって勇敢に戦い、必要ならば相手の命を奪うこともいとわない、いわば「戦いの美化」になっていないか。

何物も恐れずに立ち向かうという「勇ましさ」は一歩誤れば、後先のことを考えない無鉄砲な「蛮勇」と紙一重であり、戦前、戦中の日本が歩んだ道が後者であったことは歴史が教えるところである。

このアニメ映画が世間でほとんど礼賛一辺倒の論調であることに糸数さんと同様、私も「危惧」を感じざるを得ない。(令和03年1月25日付琉球新報8面)

石原さんの投稿に関してはいろいろ突っ込みたい部分があると思われますが、ブログ主が注目したのは「ある年、期末試験問題とは別に、「平和について」の問いを予告なしに設けた。熟考15分ほど。」の部分です。いわば学生に不意打ちを仕掛けたのです。

その流れで「ぬちどう宝」の真髄の回答文を提出した学生ですが、ブログ主が感心したのは、15分程度の短い時間のなかで、設問者の真意を正確に読み取り、模範的な文章を提出したことです。これはなかなかできることではありません。ちなみに、この展開で「平和を守るためには相応の軍事力が必要だ」なんて回答したら、少なくとも石原さんの感情を害しますし、下手すると “パワハラ会議” に発展する恐れがあります。つまり学生さんは、石原さんの意図を見すかした上で、上手にあしらったわけです。

この投稿からは “老害をうまくあしらう技術の大切さ” を読み取ることができます。そしてブログ主は

老害界の “無惨様” が平和の大切さを語ることへの危惧

を感じざるをえません。(終わり)

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