資料 琉球王国時代の民家 その4

前回記事では、近年の民家の資料を提示しました。今回は地頭代の家の画像をアップします。

・入り口です。本瓦葺の立派な門構えです。

・ヒンプンです。前回記事に記載した通り、ヒンプンのつくりには目だった規則性がありません。

・庭(ウナー:多目的広場)から見た主屋(母屋)と前の屋(アサギ)です。

・庭の前にあった説明看板です。

・ブログ主が作成した地頭代の家の間取りと説明文の書き写しです。

地頭代の家 地頭代は、王国時代各間切(現在の村)の地頭(領主)の代官として、地方行政を担当した人であり、その間切の百姓の有力者を登用した。

地頭代は、間切番所(現在の村役場)の最高の役で、物奉行及び吟味役の指揮監督をうけて諸令達を執行し、耕地の分配や林野の保護、諸税の徴収、上納等、諸般の行政を監理する役目であった。

この建物は、現存するかつての地頭代の家をモデルにしたもので、貫木屋形式の本瓦葺である。間取は沖縄の民家の典型で、東南に面して床の間の一番座、その隣に仏間の二番座、そして居間にあたる三番座が置かれる。裏側には、子女の居室となる一番裏座、二番裏座、産室にもなる地炉を持つ三番裏座が配される。離れ座敷は前の家(アサギと云う)と云われ、隠居部屋あるいは来客の宿泊などに用いられる。

・主屋(母屋)に入る前に豚舎の画像をアップします。豚舎までが本瓦葺です。

・台所から入ります。百姓階級の台所とは比較にならないほど立派な作りと台所用品の多さにびっくりします。

・板間です。

・二番座(仏間)です。

・一番座(床の間)です。

・裏座です。地頭代の家はおきなわ郷土村のイベントに利用されているので、ちょっとした物置状態になっています。

・三番裏座です。地炉(ジール)があり、産室にも利用されます。

・主屋(母屋)から見た前の屋(アサギ)です。

・最後に参考までに『沖縄大百科事典』に記載されていた士族屋敷の間取りおよび説明文をアップします。

士族屋敷 上級士族・平士の屋敷。1737年(尚敬25)に敷地家屋の制限令が交付され、貴族屋敷(御殿・殿内)、士族屋敷、百姓屋敷(民家)に区分された。士族屋敷は10間×10間に制限、それ以前からの所有敷地はそのまま認められた。屋敷は石垣囲い、門は屋根付き門(ヤージョー)が主であるが、平士の場合は屋根のない門もあった。突き当たりには〈ヒンプン〉があり、屋敷の内側周囲にはフクギを植えた。

いかがでしょうか。沖縄の民家といえば、上記にアップされた地頭代の家をイメージするかもしれません。琉球村などの観光地に現存している民家もほとんどがこの間取りになっています。ただしこの形式は明治22年(1889)に明治政府によって敷地家屋の制限令が撤廃されてから初めて一般化したのです。いわば士族屋敷=琉球の民家とちょっとした誤解が生じている状態で、実態は昭和の初期まで粗末な穴屋形式が主流でした。ちなみに沖縄の住宅がコンクリート作りの立派な建物に変貌したのは、昭和26年(1951)からスタートした琉球復興金融基金(復金)がきっかけで、この金融政策は琉球・沖縄の歴史上最高の成果を生みます。この件は近代の沖縄を語る上で欠かせない出来事なので、後日改めて詳細を掲載します。(終わり)

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