金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(3)

(続き)復帰後にも心配された本土ヤクザの進出もなくて、結成から3年半ほどが無事に過ぎて、ホッとしていたときに上原勇吉の事件が起きたんです。

じつを言うと、勇吉と私は親しい間柄だったんです。もう1人、山原派の理事の座安久市と3人でよく飲みに行って、いろんな話をしたもんです。勇吉と座安の2人がターリーから1000ドル、私がスターさんから1000ドルもらって、3人で遊技場を経営することにもなってもいたんです。

あれはもともとは勇吉と喜史さんの喧嘩でした。勇吉は前から喜史さんへの反感を漏らしてましたからね。しかし、もうちょっとで遊技場の計画が実現する矢先のことですから、勇吉ははじめから旭琉会を相手にいくさをするつもりはなかったんです。待遇の不満もあったと思いますが、要は感情の行き違いですよ。喜史さんは激しい人でしたから、10やったことが30になって返ってくる。勇吉にも意地がありましたから、だんだんエスカレートして、もう後戻りできないところまで行ってしまったんです。

勇吉は喜史さんの理事長権限で、旭琉会を破門にされたんです。そうなったらもう勇吉に残された道は、ヤクザをやめるか叛旗をひるがえすかのどちらかしかない。

勇吉はスターさんが自分の方に付いてくれるのを期待していたんですよ。勇吉はスターさんには何のわだがまりもなかったし、信頼してましたからね。だから、いざこざが起きるとすぐにスターさんに電話を入れて、

『スター、今度のことは、あんたにじゃないよ。喜史にだよ』

そう言ったんです。するとスターさんは、

『何を言ってるんだ。俺と喜史は兄弟じゃないか』

そう答えて、それが命取りになったんです。

私は、そのときのスターさんの気持ちが痛いほどよくわかるんです。

勇吉と喜史さんの喧嘩ですから、要するに山原派の仲間割れなんです。スターさんにはなんの関係もない。もしそれが旭琉会ができる前だったら、スターさんは、

『わかった、俺は動かないよ』

そう答えて、那覇派は高見の見物だったろうと思います。しかし、喜史さんと手を組んで旭琉会を作ってしまったあとだったから、そうはいかなかった。もしそれをしたら、せっかく1つにまとまった沖縄ヤクザがまた2つに割れてしまう。それでは本土ヤクザの思うつぼだから、スターさんはすべてを胸の中に呑み込んで、喜史さんと運命を共にするしかなかったんです。

勇吉は敵ながらあっぱれでしたよ。アリが象に刃向かっていくようないくさでしたが、いくさは数じゃないということを、あいつは意地と才覚で旭琉会に思い知らせたんです。あれはあれで沖縄の武士だったと思います。

すべては謀略でした。スターさんの嫌いな闇討ちでしたが、多勢に無勢ですから勇吉にすればそれしかなかった。喜史さんは撃たれて死んでしまった。アッという間でした。

それから1年後に、とうとうスターさんも撃たれて死んだんです。

スターさんと勇吉は、もともとは殺し合いをするような仲じゃなかったんです。スターさんは旭琉会の理事長だったから、喜史さんと手を組んで沖縄を1つにしようと思っていたから、殺されなければならなかった。それだけの理由です。

私はスターさんが殺されたときに、はじめて勇吉を許せないと思いました。

しかし、勇吉は影も形もないのです。旭琉会はずっと見えない敵と戦わなければならなかった。そのときにはもう本土へ高飛びしていたんでしょうが、かたきを討とうにもどこにいるのかわからない。どうにも手の打ちようがなかったんです。

それから1年ほどして、その勇吉が思いがけない形でまた登場してきた。本土のヤクザの舎弟になって、本土のヤクザの代紋を首里に揚げたんです。それから、東亜友愛事業組合から枝分かれした一派が、やっぱり同じ本土ヤクザの代紋を掲げて琉真会を立ち上げたんです。裏でどういう画策があったかは知りませんが、すべてが勇吉の策略だったことはまちがいないでしょう。

アッと驚くようなことでした。

私は、(あの勇吉が……)と思って開いた口が塞がらない思いでしたが、よくよく考えれば、勇吉がヤクザをやっていくためには、もうそういう形になるしかなかったんです。しかし、同時にそれが、スターさんが恐れていた”復帰後の沖縄ヤクザの本土進出”そのものだったんです。

私たちはなんとなく本土ヤクザが外から攻め込んでくるようなイメージを持ってましたが、そうじゃなかった。かつては私のいちばん身近にいた沖縄人が、そういう災いをかつぎ込んで目の前にドンと置いたんです。

そこからまたいくさが始まるんですが、それは旭琉会にとってはなんとしても負けられないいくさでした。

上原組と琉真組は、たとえて言えば堤に開けられたアリの穴です。放っておけばそれはどんどん拡がって堤が崩れるに決まっています。だから、なにがなんでもその2つの穴は完全に塞がなければならない。どんな形ででも、それを沖縄に残してはならない。そうでなければあの世に行ってスターさんに合わせる顔がない。そのときにはもう二代目になってましたが、旭琉会はみんなそういう気持ちで戦ったと思います。だからあれだけ激しいいくさにもなったんです。

戦いが終わって、目的は達せられました。それで今日の沖縄ヤクザがあるんです。

スターさんは偉い人でしたよ。あの人がいなかったら、沖縄は今ごろどうなっていたかわかりません。沖縄は、沖縄人が一つになって守っていくしかない。あの人はそう思って生きたんです。そしてそのために死んだんです。今にして思えば、まさに沖縄の武士の魂そのもののような人だったと思います。

スターさんのそういう死を絶対にムダにしてはいけない。スターさんが沖縄を思った気持ちを、しっかりと後世に伝えていかなければならない。そういう思いで、私は微力ではあっても、今も沖縄のヤクザを陰から支えているつもりです。

目を閉じれば、やはり一人で座って、沖縄の古い民謡を三味線で弾いているスターさんの姿が浮かんできます。そしてそれが沖縄ヤクザがいつの時代になっても立ち戻るべき原点だと私は思えるんです(終わり)。

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