佐敷のタックルサー考

前回”黑いりうきうルネサンスの時代”と題して尚敬王時代(1713~1751)の暗黒面について言及しましたが、本来は巴志(1372~1439)の足跡を調べるため『球陽』などチェックしている際に素でエグい記述を見つけたので、ついでにまとめ記事を作成しています。今回は本題である巴志についてブログ主なりに言及します。

『中山世鑑』や『球陽』など17~18世紀の史料を参照すると、明らかに当時の執筆陣は ”朱子学” を通して数百年前の出来事を記述しています。巴志や内間金丸あたりは ”仁徳があるから天下人になった” が公式回答で、その設定自体にケチをつけるつもりはありませんが、彼らが活躍した15世紀に果たして儒教が沖縄に伝播してひろく一般の社会慣習として根付いていたかのか。この点だけは疑問に思わざるを得ません。

そこで今回はためしに”朱子学要素”を意図的に頭から取り除いて『球陽』における尚巴志の記述を読むとどうなるのか言及します。

巴志さんは1392年に父思紹(ししょう)から佐敷の按司(地域のボスの認識で構いません)を受け継ぎます。その時の記述は下記参照ください。

洪武二十五年、歳二十一のとき、父思紹、巴志に請ひて曰く、昔王城王徳を失ひ、政を廃し、国分れて三と為り、勢ひ鼎足の如し。爾よりして後殆んど百年に及ぶも兵戦息まず、生民塗炭すること未だ此の時の若きの甚しき者有らず。吾、当時の諸按司を見るに、各兵柄に拠ると雖も、皆戸を守るの犬にして、与に為す有るに足らず。今の世に唯汝一人のみ以て為す有るべし。汝吾に代りて佐敷按司と為り、民を水火の中より拯へば、吾が願足ると。巴志喟然として嘆じて曰く、惟命是れ従ふのみと。即ち父を続ぎて佐敷按司となり、兵馬を調練す。

大まかに説明すれば、「いま天下は乱れているので、(ワシでは無理だから)お前が代って佐敷を治めて住民保護の責任を全うせよ」になりましょうか。ここで”民”の解釈ですが、思紹がボスとして君臨している佐敷内の住民のことか、あるいは琉球全体のことかの判断が難しいです。ただし朱子学のセンスで考えると明らかに琉球全体の住民を指します。

佐敷のボスに就任した巴志さんのことはお隣の大里にも伝わります。その報を聞いた島添大里按司(大里のボス)の感想は下記参照ください。

島添大里按司、群臣を召して曰く、今諸按司皆懼るるに足らず。惟佐敷按司の子巴志、英明神武にして擎天の翼有り。今、父を続ぎて佐敷を領す。吾甚だ懼る。況んや吾と巴志とは睦じからざるをや。之れを如何にすれば則ち可ならんやと。

意訳すると、「ワシは他の地域のボス連中は怖くないが、佐敷のあいつだけとは殺りあいたくない。しかも奴とは仲良くないし、どうしたらいいのか」と群臣たちに質問してます。つまり巴志さんの(たぶん現代基準だとあまり芳しくない)所業はお隣の大里にまで評判になっていたわけです。しかもその質問中に渦中の巴志さんが大里を襲撃します。

言未だ畢らざるに喊声大に起り、巴志早已に兵を領して来り攻む。大里按司大いに驚き、兵を催して拒禦す。奈んせん巴志は希世の英雄、兼ぬるに勇健の兵多し。力の禦ぐべき無く、竟に巴志の為に滅さる。

ここで気になるのは、

島添大里按司さんって何か悪いことしましたか?

の一言です。その後めでたく大里地区をゲットした巴志さんの評判(たぶん悪評)は地域中に知れ渡ります。

巴志、大里等の処を得て威名大いに振ふ。

これも意訳すると「こいつやべー奴」で間違いないです。この後、巴志さん(と愉快な仲間たち)は首里目指して進撃しますが、この件は後日言及します。そして改めて朱子学フィルターを設定して巴志さんの言動をチェックすると、

こいつ、佐敷のタックルサーじゃね?

と確信せざるを得ないブログ主であります。

 

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