暴力追放 ① 表面に出ない幹部 / 住民の協力を呼びかけ(1)

当運営ブログにおいて、初めて沖縄ヤクザ関連の記事をアップしたのは平成30年(2018)4月であり、これまで126のコラムを掲載してきました。そこで今年から沖縄タイムスや琉球新報に掲載された(沖縄ヤクザ関連の)特集記事を公開しつつ、”現在の視点” での解説を加えてみました。

なお、ブログ主が確認できた限り、昭和40年8月31日から沖縄タイムスで5回にわたって掲載された『暴力追放』が我が沖縄における初の “特集記事” です。今回から数回に渡って、なぜこの特集記事がアップされたかの時代背景を紹介しつつ、全文を公開します。ただし現代の読者には読みづらい感があるので、ブログ主判断で記事を分割して掲載しています。

アメリカ世時代の那覇派やコザ派の反社グループは昭和37年(1962)の抗争(第一次沖縄抗争)において琉球警察から徹底的な取り締まりを受け、翌年の裁判において壊滅的なダメージを負いました。ただし残ったメンバー(例:糸数直亀、岸本建和など)を中心に組織再編を試みますが、その過程で旧コザ派が新城シンカ(山原派)と喜屋武兄弟シンカ(泡瀬派)に分かれて熾烈な派閥争いが勃発します。

そして昭和40年8月28日、普天間において泡瀬派の組員(大城邦男)が山原派の組員(松茂良弘、島袋清、平良清秀)に刺殺された事件は琉球社会に衝撃を与えます。その直後に沖縄タイムスは『暴力追放』、琉球新報は『組織暴力』の特集記事を掲載していますが、沖縄タイムスの記事は当時の記者たちが(那覇派や旧コザ派などの)反社グループをどのようなに “視ていたか” が伺える貴重な内容になってますので是非ご参照くださいませ。

昭和40年8月31日付沖縄タイムス朝刊07面

中部での暴力団抗争は、〔昭和40年8月〕29日ついに殴り込みを受けた泡瀬派暴力団のひとりが死亡するという騒ぎに発展、中部一帯は、異常な緊張感に包まれている。こうした暴力団の横行は、取り締まり陣の腰の弱さといった印象を一般に与え、一部には警察不信の声さえきかれる。

しかし、警察当局は、法律のギリギリの線で暴力団の取り締まりに当たっており決して手をゆるめることはないと新垣〔淑重〕警本部長は語っている。実際、警本では、4月28日、新垣警本部長を総本部長に「暴力犯罪取り締まり推進総本部」を置き、組織犯罪、個人犯罪を問わず、暴力事犯の徹底的取り締まりを進めており、その結果、検挙者480人組織暴力関係103人とかなりの効果をあげている。ではなぜ、こうした取り締まり陣の目をかすめて暴力が横行し、あとを断たないのか。根はもっと深いところにあるのではないか。法的不備、業者とのクサレ縁、暴力に対する市民の弱さ、これらいくつかの要素が暴力をそだて、暴力団をのさばらせる結果にもなっていないか。そこには、取り締まり一辺倒だけでは、解決できない問題があるともいう。社会から暴力を一掃するために、ここで改めて暴力団の実態をみつめ、暴力追放のためのカベをひとつひとつとり除くにはどうしたらよいか。つぎにその実態をえぐってみた。

たしかに、沖縄には〇〇一家といった歴史的背景をもった組織暴力団はない。特飲街に寄生自然発生的にできた遊び人のグループが、服役中に、たまり場で次第に仲間をふやし、それが対立グループの出現によっていっそう仲間意識を強めたものといえよう。現在、暴力団と呼ばれるものは、500人とも1000人ともいわれる。それは、暴力予備軍ともいうべき飛行少年がつぎからつぎと芽を吹いているためで、コザ派、那覇派の抗争(62~63年ごろ)にくらべると相当のふえ方だというが、その実数は、当局でもじゅうぶんつかんでいないようだ。(続く)

【史料】参考までに、昭和40年9月2日付沖縄タイムス11面に、松茂良弘、島袋清、平良清秀のご尊顔が掲載されてましたのでご参照ください。