続・琉球藩の時代 クズエピソード再考 その3

King_Sho_Tai

前回の記事で、島尻地方(沖縄県南部)の間切において、甘藷畑をつぶしてサトウキビを栽培し、黒糖を販売することで借金(宿債)を償却したエピソードを紹介しました。その結果、間切住民の食料である甘藷(唐イモ)が不足して、2~3月ごろにはソテツを食せざるを得ないという、まことに悲惨な状況になってしまいます。なぜそんなことになったのか、その理由は間切を領有する地頭と、実際に間切の行政を担当する「おえか人」(官吏)、そして百姓の間に「我々は同じ琉球人だ」という連帯感が全くなかったからです。

この点は琉球王国全般に共通して言えることですが、当時の社会は階級の垣根を越えた連帯感、「我々は琉球民族である」という発想はありません。それ故に王族や地頭たちは、結果として支配地域の住民を借金奴隷の如く扱っても何の痛痒も感じることがなかったのです。以前にも記載しましたが、琉球・沖縄の歴史において全県レベルで「我々はうちなーんちゅである」という連帯感が醸成されたのは1960年代になってからです。上記のエピソードと現在の沖縄県を比較すると、いかに現代社会が素晴らしく、そして恵まれた環境であるかを実感します。

今回紹介したクズエピソードのなかで

  • 琉球王府が定めた甘蔗の作付け制限が遵守されていない。

の件について補足します。かつて琉球王国の時代に、首里王府がサトウキビの作付を厳しく制限したのは、甘蔗栽培がと黒糖生産が大量の薪水、そして肥料を消費するため、限られた水や木材資源を保護せざるを得なかったからです。特に砂糖を煮詰める薪材、そして黒糖を詰める砂糖樽に大量の木材を消費するため、キビ畑や黒糖生産を加速度的に増やすことはできません。実際に廃藩置県後も甘蔗畑は、全耕地の10%にも満たない状況です(推定6%前後)。

だがしかし、琉球王国の末期は甘蔗の作付制限令が有名無実化されてしまい、各間切において焼過糖(余剰糖)を生産して借金(宿債)を償却することが常態化します。問題はかつて自らが定めた制限令が全く守られないにも関わらず、琉球王府側が何も対策も取る事ができなかった点です。社会の現実と現行法に矛盾が生じた場合は、対応策は2つです。ひとつは法令を遵守するよう取締を強化するか、もうひとつは社会の現実に合わせて法改正を行うかです。ブログ主は(尚泰王の時代に)琉球王府が、既に有名無実化したサトウキビの作付制限令に対して,何らかの対策を講じた事実は寡聞にして知りません。

しかも東風平間切に直接乗り込んで、間切の建て直しに尽力した義村朝明は王族出身です。王族自ら、かつて定めた制限令をガン無視して、焼過糖の生産を促進して借金を返済すること事態が異常極まりないのですが、そんなことは一度も問題になった形跡がなく、寧ろ東風平を立て直した実績が評価される摩訶不思議なことが起こっています。この事実から推測できるのは、当時の琉球王府(あるいは琉球藩)はもはや社会の現実に対応するための政務能力を完全に失っていたことです。制度腐朽極まりない状態だったとも言い換えることができますが、こんな有様では、1879年(明治12)に琉球藩があっさり廃されても、「しょうがない」としか言い様がありません。

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