琉球新報ほか沖縄のマスメディア関連の資料 

琉球新報ほか、沖縄のマスメディア関連の資料を掲載します。

・琉球新報 1893~1940

1893年(明治26)9月15日に那覇で創刊された沖縄最初の新聞。創刊者は尚泰王の四男尚順を中心に、高嶺朝教、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和ら首里の旧支配階級の青年派に属する20代の若者たちだった。彼らのうち、高嶺と太田は第一回県費留学生として東都で学び、開化党派の新知識人であった。

実際の新聞作りには、県知事奈良原繁が新聞の発行許可の条件として入社せしめた野間伍造(主筆)と宮井悦之輔という他県人記者も加わった。両記者とも西郷従道内相が斡旋したこともあって、県知事の体のよい目付役とみられていた。

創刊当初の社屋は、那覇区西の城間という人の民家を借り、当初の紙面は、タブロイド判の隔日刊だったが、1906年4月1日からブランケット判4ページ建ての日刊に変わった。印刷機は県庁が広報印刷に使っていたのを払下げてもらって、発行部数は多くて400~500部程度。創刊の目的は、同紙の公言によると

①世界の大勢に着眼して以て沖縄の進歩発展を促進すること

②偏狭の陋習を打破し地方的島国根性を去りて国民的同化をはかること、

にあった。だが、新聞の実際の歴史をたどってみると、同紙が専心、力を入れたのは〈国民的同化〉の方針であった。

廃藩置県以来、沖縄では県外からやってきた寄留商人たちが、外来の県知事が支配する県当局と結んで、政治・経済上の権力をほどんどひとり占めしていた。強大な権勢をバックにして、外来者は、しばしば地元民を蔑視し、差別する風潮があった。こうした状況にたいして「琉球新報」同人は、地元民が中央政府から差別的処遇を受けたり、他府県人の偏見の対象となるのは、沖縄の風俗・習慣が他府県人のそれと違っているからだと考え、あげくのはてには、沖縄の古くからの風俗・習慣は価値がないものとみなすようになった。その結果、一日も早くそうした〈沖縄的なもの〉は忘れさるべきだと説いた。ちなみに同紙は、国民的同化について〈我県民をして同化せしむるということは有形無形を問わず善悪良否を論せず一から十まで内地他府県に化すること類似せしむることなり極端に云へばクシャメすることまでも他府県人の通りすると云うにあり〉と言明したほどである。

一方、「琉球新報」創刊の背景には今一つの狙いがあった。それは外来の寄留商人の手から社会上の支配権を奪い返すことであった。同紙が県民に対して〈国民的同化〉を鼓吹してやまなかったのも、一つには、そうすることが支配権を奪還するのに有利だったからにほかならない。旧支配階級の子弟である創刊者たちがいかに権力に執心したかは、1896年に起こった〈公同会事件〉からもよくわかる。

この事件は尚寅や「琉球新報」の太田朝敷らが中心となって推進したものだが、運動の狙いは、沖縄に特別制度をしき、旧藩王の尚家を世襲の県知事にすることで、これは一種の〈復藩運動〉とみられた。そのようなことから、〈公同会運動〉は、中央の新聞から〈時代錯誤も甚だしい〉と批判・攻撃され立ち消えとなっていった。

しかし、明治30年代も半ばごろになると、「琉球新報」同人は、当初の計画どおり寄留商人の手から政治・経済上の支配権力をほぼ奪回するのに成功する。尚順らが尚家の資本をバックにして船会社の沖縄広運(株)をつくったほか、同人の一人高嶺朝教は沖縄銀行の頭取となったうえ、1909年に県制が施かれると、初回の県議会議員に当選し議長にも選ばれしもした。すると「琉球新報」同人は、同士会を結成し県会で過半数を誇るまでになる。おまけに、太田は主筆をつとめるかたわら、琉球砂糖(株)の社長を兼ねていた。そのような背景から「琉球新報」は、首里の〈支配階級の機関紙〉といわれた。

1905年と08年に「沖縄新聞」と「沖縄毎日新聞」が同士会と対立する地域的、人的集団をバックにして相次いで刊行され、3新聞が三つ巴になって対立・抗争をくりかえすことになるが、他の2紙は創刊10年ほどたつと財政難から廃刊に追い込まれる。ところが「琉球新報」は社内の分裂騒ぎなどもあって一時的な危機に見舞われながらも、それを克服して、明治・大正・昭和の三代にわたって生き残る。同社の同人たちが資産家で他紙にくらべて財政面で比較的に安定していたこともその一因だが、ほとんど常に県当局と妥協し、民権論者の弾圧に手を貸すなどして事大主義的な編集が長命の秘訣だった面も見逃せない。半面、歴史が長かったことも幸いして、同社から多くの優秀な新聞人を輩出せしめた功績は大きい。

しかし、1940年(昭和15)の〈一県一紙制度〉によって「沖縄朝日新聞」と「沖縄日報」の2紙とともに「沖縄新報」に統合され、姿を消した。〈太田昌秀〉 (沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

・太田朝敷 おおた・ちょうふ 1865.4.8~938.11.25

沖縄の代表的新聞人、政治家。首里山川村(現那覇市)の士族の家に生まれ、伯父太田朝明の養嗣子となる。1972年(明治5)7歳で首里の村学校に学び、80年2月、那覇市西村県庁内の会話伝習所に入り、かたらわ県庁役人川村三二(静岡県人)の個人教育をうけ、新知識を吸収する。1882年、沖縄師範学校に入学、同年11月、第一回県費留学生に選ばれ、他の留学生4人とともに上京、学習院漢文科に入学、のち東京高等師範学校に進む。1886年、養父が死亡、養母の催促で学業を中断して帰郷する。一時、家を出て農家を転々とし、砂糖小屋の釜たきなどをする。この不遇の放浪時代の体験が後年の思想形成の根幹になっていると思われる。

やがて福原実知事の斡旋で慶応義塾理財科に復学する。1893年9月10日、沖縄最初の新聞「琉球新報」の創刊に加わり、論説記者として建筆をふるい、沖縄きっての啓蒙的思想家として知られる。日清戦争のころの開化党と頑固党の対立では、開化党の牙城といわれた「琉球新報」の代表的論客であった。旧藩王尚泰を沖縄の長司とする特別自治制度をめざす公同会運動に加わり、政府の弾圧を受ける。明治30年代初頭の謝花昇を中心とした民権運動に対しては批判的立場をとった。公同会運動や謝花との対立については、後に反省しているが、いずれも現実主義者であった彼の行動の軌跡であったように思われる。

1905年、沖縄砂糖(株)を創立、社長となる。「琉球新報」主筆、島尻郡組合議員などを兼ね、1913年(大正2)の第2回県会議員選挙に当選、県会副議長となり、16年2月までつとめる。衆議院議員選挙や大味久五郎知事の県政をめぐって15年以来、琉球新報内に内紛があり、太田は19年「琉球新報」を去り、末吉麦門冬、又吉康和らも加わって「沖縄時事新報」を創刊するが、わずか1年で廃刊。以後、那覇市西新町で〈南陽旅館〉を経営する。25年、ハワイの沖縄人会の招きで約1年間ハワイに滞在、各地で沖縄の事情を講演する。

1930年(昭和5)又吉講和らが社主尚順から「琉球新報」を買い取ったさい、社長に迎え入れられる。翌年、新聞社社長のまま市議会の推薦で首里市長となり、首里の産業復興に尽力、1933年(昭和8)までつとめる。また井野次郎知事の〈沖縄県振興計画〉に側面から協力するほか、沖縄県海外協会副会長として移民事業も推進する。1932年(昭和7)貴重な近代史料である「沖縄県政五十年」を刊行。思想的には福沢諭吉と親鸞の影響を強く受け、また田原法水と親しく真教寺の門徒代表であった。

晩年、無量寿会を組織、求道にはげみ、高士の風があった。〈天南〉〈潮東〉を号とし、蜜柑の随筆や論文がすくなくない。物欲に恬淡で晩年まで借家住いだったが、1936年(昭和11)に志喜屋孝信、古波蔵正英(医博)らの尽力で、海外・県内から資金が集まり、那覇市松山町に〈無得庵〉を、琉球新報内には山田真山製作の彫像が建てられた。〈沖縄それ自体を家とする〉(東恩納寛惇)典型的な〈社会の木鐸〉であった。73歳で死去、琉球新報社葬となる。〈太田良博〉 (沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

・12月13日 太田朝敷評を追加

実業家としての君、操觚者としての君、共に定評あり。然も政客としての君亦県下に冠たるに至っては偉なりというべし。君は慶應元年四月首里区山川町に生る。明治十五年本県師範学校在学中東京に留学を命ぜられれ、上京後は学習院及慶應義塾に学び、同二十六年業成りて帰県し、琉球新報社創立に力を竭して其記者とsなり、爾来幾多の苦難に遭遇して能く今日あらしめ、今や其主筆として名声高し。

同三十八年沖縄砂糖会社を創設して其社長となり、堅忍持久以て能く其経営に任じたりしも、時非にして遂に破綻の悲運に会せしは惜しむべし。 又大正元年島尻郡より選出せられて県会議員となり後間もなく時の副議長玉那覇君の逝去後押されて其椅子に就き、同時に沖縄砂糖同業組合の理事となりしが、大正五年二月を以て全部の職を辞せり。然も県会副議長としての君は仲吉議長を輔佐して能く其任を完うし、其舌鋒甚だ鋭くして皮肉の論客として其名高し。

又琉球新報主筆としては天南或いは竹雨と号し穏健の筆を以て勤勉事に当り、喧々諤々の議論は能く県下を風靡して、社会の木鐸たるに恥じず。其実業界に在るや意志鞏固にして画策事毎に機宜に適し、経営亦凡に非ず、一見瘦身にして髪半白の老紳士なれど精力絶倫也。資性活淡潤達にして見識高邁、人に接して城府を設けず頗る能弁なり、其趣味は高尚優雅にして、美術品を愛し風月を友として特に釣魚を好めり(島尻郡真和志村字天久)(沖縄県人事録、楢原友満編、大正五年刊行より抜粋、旧漢字はブログ主にて訂正) 

君は慶応元年四月八日首里山川に生る。明治二十年沖縄懸師範學校在學中、懸より選抜せられて東京留學を命ぜられ、學習院に入り慶應義塾に學び、歸懸するや明治二十六年琉球新報社を創立し大正八年まで二十七ヶ年を本件操觚界に在りて琉球新報社記者及主筆として健筆を揮ひ、言論機關の覇權を握り本懸文化の開發に貢献す。此間大正元年には懸會議員に當選し間もなく副議長の椅子に就き、同時に砂糖同業組合の理事となりしが、大正五年二月を以て全部の職を辞任し、其後琉球社を退き、時事新報を創立、大正十四年より十五年まで布哇沖縄懸人會の招聘により渡布各地を講演行脚、歸朝後首里市長に就任、再び琉球新報社に入り其社長となりて今日に及ぶ、目下海外協會副會長、懸農會顧問、郷土協會長其他の要職いあり、本懸操觚の大先輩たり。天資聰明にして溫和、見識頗る高邁、瘦身白髪矍鑠として經世の道を論じ、高風親しむべき紳士なり。趣味読書。(沖縄県人事録、沖縄朝日新聞社、1937年刊行) 

・12月13日 追加 水曜会と太田朝敷

沖縄県立二中の志喜屋孝信校長と県立一中の胡屋朝賞校長らが中心になり、両校の有志教師を集めて琉球新報社・太田朝敷翁に話を聞く会を水曜会といった。水曜日を例会日とし、上ノ蔵の素封家・嘉数詠惇の宅を例会場に定めて催した。

この写真(昭和十年秋の例会)について最近刊行された「回想田端一村」の発行者真栄田義見は、その序文に代えて「師弟同行の教育者」と題し次の文章を掲げている。

「……太田朝敷先生に物をきくことを中心にして、会員相互のコミュニケーションの場をつくろうということで上ノ蔵の嘉数家を会場として集まったのがこの写真の人たちであった……」(写真集「むかし沖縄」、琉球新報社、昭和53年より抜粋、屋良朝苗氏は当時沖縄県立二中の教師)

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・12月13日 在りし日の太田朝敷先生の写真を追加。1937年(昭和12)、旧琉球新報社の家屋での撮影。1213_01

・明治三十三年七月三日二面 琉球新報 の記事

沖縄高等女学校開校式

【沖縄高等女学校開校式】は予定の如く一昨一日師範校内に於て挙行せられたり、其景況を略記すれば午前十時頃第一鐘を以て生徒入場、第二鐘を以て来賓入場、第三鐘を以て奈良原総裁入場し各自着席するや一同起立君が代の唱歌ありて後ち奈良原総裁は勅語を棒読し再び唱歌(開校式の曲)ありて奈良原総裁、小川会長、安藤校長の演説あり、是より来賓なる本社の太田朝敷氏の演説(其筆記は本日の社説欄に揚げたるが如し)隣谷那覇小学校長の演説及び生徒総代砂辺カメ女の祝辞朗読あり斯くて「学びのまど」の唱歌ありて式了れり、一同敬礼順次に退場し会長の案内に依りて教育品を巡覧し女子講習科生徒の遊戯を観て祝宴に移りたるが、当日来賓中の婦人方には各高等官の夫人数名及び尚典君のご息女鶴子姫も見受けられ一層の光彩を添えたり。

・明治33年7月5日二面 琉球新報の記事 (この演説はあまりにも有名、当時の琉球新報の社風を象徴する記事として掲載します)

女子教育と本県(承前)

明治十七年の頃と今日と比較する時は本県女子教育は実に長足の進歩で小川会長のいわれまする通り(明治)十七年には学齢三万人の中就学者は只十七人しか居なかった処今日になりては百人中三十三人の就学者があるとすれば非常の進歩でございます。乍併他府県と比較しますればまだまだ半数にも達しない位ひでございます。

前にも申します通り文明は綜合したる名であって、一局部一事物に就て下したる名ではありません、さすれば我沖縄は日本の文明を傷つけて居ると云わなければなりません、何となれば他府県には女子就学者の百分比例が三十三と云ふ少い数はない、全国の平均数を取ったならば日本は我沖縄の爲めにその数を減せられなけらばならん、果たして女子教育の盛衰を以て国の文野を区別せらるるものとすれば即ち日本の文明は沖縄の為にその幾分を傷つけられたるものと見なければなりません、我々沖縄県人たるもの誠にお恥ずかしい次第でございます、沖縄今日の急務は何であるかと云えば一から十まで他府県に似せることです、極端に云えばクシャメする事まで他府県の通りにすると云うことです、全国百分の一位ひしかない地方でありますからそれ位ひな勢力では到底従来の風習を維持して行くことはできない、維持ができないものとすれば我から進んで同化するか自然の勢いの任すか取るべき道は二つである、即ち積極的にやるか消極にやるかの二つでございます、若し消極的に同化させようとすれば優勝劣敗の法則に支配されて幾多の不利を感じなければならぬ様になります、大木の下にある小木が生長しないと同様な理屈であるから斯う云ふ場合には寧ろ人為でも引延ばして大木に圧倒させぬ様にしなければならんと思ひます、さて他府県同様にするに尤も欠くる所は何かと云ふに女子です、私が帰って来ます途中鹿児島で船着場に久米村の婦人か二十人ばかり一かたまりになって立て居るのを見ましたが当地では目に馴れて何とも思ひませんけれども彼地ては私にさへ余程目につきました、況や他府県の人々の目で見れば余程異様の感が起るだらうと思います、本県を他府県同様にするには先ず本県人から内地と云ふ観念を取りのけて仕舞うことは勿論他府県人の頭からも琉球と云ふ観念を取りのけて仕舞はなければならんのに斯る有様では一種特別の琉球視せらるることは何時までも免れないと思います、此等外観の改良も女子教育が盛んにならなければ到底出来るものではありません、要するに他府県風の家庭を作り他府県にもドシドシ入り込ん行て他府県と本県との関係か人と人との関係のみならず、家族と家族との関係がなければ内地琉球の●壁はとれないと信じます、この仕事は誰の手にもありますが即ち女子の手です、女子をしてこの仕事を成就せしむるものは何でありますか、勿論女子教育です。

他府県では女子教育に就ては何れの地方でも小学校は勿論本校の如き高等女学校や女子師範学校のない所はありません、本県には女子師範学校と云うてはありませんけれども講習会はその卵子であります、そこで今版本校が出来ましたからこれで女子教育整備の端緒を開きました、沖縄が文明の域に入るはこれ等の諸学校が盛んになりまして女子教育が普及する時と思います、今日は婦人方や学者先生方御列席のお場所をも顧みず喜びの余り思う所を申し述べた次第でございます。(終わり)

・12/09追加  沖縄朝日新聞 おきなわあさひしんぶん 

1915年(大正4)11月10日、『琉球新報』の若手記者5人が連袂退社して創刊された新聞。大正天皇の即位を期して発刊された。創立時の陣容は、社長に当真嗣合、理事に野村安茂、編集同人は仲吉良光(編集長)・小橋川南村(朝明)・末吉麦門冬(安恭)・嘉手川重利ら。同紙の創刊の動機は、『琉球新報』内の幹部二派の政争からで、当時の沖縄県知事大味久五郎と結んだ憲政会系の社内勢力にたいし、当真ら政友会系のメンバーが反旗をひるがえし、〈閥族打破〉をスローガンに新聞創刊を思いたった。既存の『琉球新報』とわたりあうため、読者に鮮烈な印象を与える論陣をはり、好評を得た。その後「新聞紙法」違反や背任容疑・資金難などで社内は変動をきわめたが、有能な人材が当真社長を助け、苦難な時代を乗り切る。40年(昭和15)12月、軍部の新聞統制により、『沖縄新報』に統合された。(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

・12/11 当真嗣合 とうま・しごう 1884~1946

1884年(明治17)年首里に生まれ、国学院中退、琉球新報社に入社、1915年(大正4)に退社して、沖縄朝日新聞を創設。1929年(昭和4)民政党公認で衆議院議員に当選、1946年(昭和21)熊本県で病死、61歳。

明治から大正にかけての沖縄の新聞界の盛衰は、政治の流れと極めて密接に結びついている。「琉球新報」が尚順を中心とする首里門閥、「沖縄新聞」が那覇の寄留商人、「沖縄毎日新聞」が那覇の地元民をそれぞれバックにし、あるいはそれらの発展のために広報機関紙の観があった。その意味で、このばあい「政治」とは閥族間の争いであるともいえる。しかし、1915年(大正4)に生まれた「沖縄朝日新聞」は閥族の背景がなかった。むしろ閥族勢力を否定したところに「沖縄朝日新聞」の立社精神があった、当真嗣合はその中心人物であった。

1912年(明治45)に第一回衆議院選挙があり、そのころから沖縄の政界も中央の政党との関係ができた。しかしそれが近代政党政治に成長するには、時間がかかった。1914年(大正3)に着任した大味久五郎知事は、翌年当選した代議士岸本賀正と護得久朝惟を主旨がえさせることで、政友会支部をつぶしたが、さりとて対抗勢力である憲政会支部を設置しようとはしなかった。一方で金融界の大元締めである農工銀行の頭取に護得久代議士をすえて、尚家閥族をあいかわらず政財界の中心におこうとした。「琉球新報」の社長渡久地政瑚が農銀専務となったとき、「琉球新報」の当真らは、かららの言論の将来に絶望した。

中央では憲政擁護運動の直後であった。普通選挙につながる思想が、沖縄の青年たちにも芽ばえていた。この機をみて「琉球新報」の論説の中心にいた当真嗣合が、仲吉良光、嘉手川重利、末吉麦門冬、小橋川南村の四人と袂を連らねて「琉球新報」をとびだし、「われらが言論を」との旗印をかかげて沖縄朝日新聞社を創立した。かなり抵抗は受けたが、一方では高嶺朝教がその後援者になった。

資金のバックがないから、ひどく貧乏な新聞社であった。あすの新聞を刷る紙が夕方までにないという日もあった。関東大震災のとき大いに紙面をにぎわしたのはよいが、その電報料一か月分500円を払えないという悲喜劇の一幕もあった。当真は後輩に「硬派記者たれ」と教えながら、自らは夜分にいたるまで自宅でソロバンをはじいた。家財は二~三度差し押さえに見舞われた。妻は息子の嗣光に「新聞記者と弁護士にだけはなるな」といましめた。のちに親泊政博は、つぎのように言ったことがある。「むかしの新聞記者は書くことだけだった。当真は両方やっていた。めずらしいことだ」。経営は決して得意ではなかった。しかし、やらざるをえなかった。棒給日になると、端坐して社員の愚痴を迎えた。その実直さに社員は彼のことを「道を曲がるにも直角に曲がるひとだ」と評した。(近代沖縄の歩み、新里金福・大城立裕共著より抜粋)

・12月13日 当真嗣合評を追加。

穏健且つ簡潔なる文章は能く明快にして、読者と吸引する一種の魅力を有し、頭脳緻密にして観察微細を穿ち、文を行る敏活にして論旨正鵠、所謂一を聞いて十を知るの明を有し、県操觚界に重きを為し、新聞記者として最も多望なる前途を有する沖縄朝日新聞主筆当真嗣合君は、士族故嗣正氏の男、明治十七年十一月二十日を以て首里区金城町に生る。郷学を卒ふるや直ちに上京して国学院に学び、刻苦勉勵業を卒へて帰県するや自ら操觚者たらん事を熱望し、遂に明治三十九年の春記者として琉球新報社に入り、爾来九年の長きを其の紙上に絢爛の才筆を揮って読者の好評を博したり。 君は一面棋界の情勢に注目して只管其の研究を怠らず、数年前上京して都下の各社を歴訪し、帝都新聞社の現状を見学研究せる事あり、以て其熱心の程思うべし。

又徒に数のみ多くして名実の伴わざる本県新聞界の不振を慨し、理想的のものを創刊せんと密かに画策する所ありしが、終に大正四年九月琉球社を退き、仲吉良光、末吉麦門冬、小橋川南村、嘉手川重利等の諸君と共に斡旋奔走する所あり、同十一月十日、即ち御即位大礼の吉辰を以て沖縄朝日新聞社を創立し自ら社長兼主筆となりて多年の抱負を実現せり。梅山と号し資性寡黙、其思想は穏便着実にして範を英国新聞に執り、真に社会の木鐸たるに恥じざらん事に力めつつあり。(那覇区松下町一ノ二九)(沖縄県人事録、楢原友満編、大正五年刊行より抜粋、旧漢字はブログ主にて訂正) 

・12月13日 在りし日の当真嗣合氏の写真を追加。撮影日は1936年(昭和11)の沖縄県庁内。

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・12/09追加 高嶺朝光 たかみね・ちょうこう 1895.3.21~1977.7.4

ジャーナリスト。沖縄タイムス社社長。首里山川に生まれる。父朝教、母カメの長男。幼いころから政財界およびジャーナリストなど県下の指導者、知識層などに囲まれた環境に育った。11歳の時、父母に連れられて上京、東京・麹町区富士見町の尚侯爵邸に仮寓するという基調な体験をしている。県立第一中学校卒業後、慶応義塾大学理財科へ入学。中退して1923年(大正12)帰省、29歳のとき『沖縄朝日新聞』記者となった。

当時は孤島苦(シマチャビ)、ソテツ地獄の経済窮迫の時代で、その社会状況を体験しながら記者として活躍した。37年(昭和12)編集局長時代、社会部記者が熊本の第6師団の沖縄勤務演習で来県した兵士数人による〈農家の娘暴行事件〉をすっぱ抜き、これが憲兵隊と新聞社の対立に発展、謝罪を迫る軍部にたいして一歩もゆずらず毅然として立ち向かったのは有名。結局、新聞社の陳謝はとらず〈訛報〉という新語で一件落着した。ジャーナリストとしての反骨精神と沈着・冷静な判断力と姿勢は、当時から高く評価される。40年、一県一紙の国策により『琉球新報』『沖縄朝日』『沖縄日報』の3紙が、『沖縄新報』として統合され、総務局長、専務をつとめた。沖縄戦では社員を指揮して砲煙弾雨下の首里城近くの壕で新聞を発行し続けた。戦後の49年7月、米軍政下で『沖縄タイムス』を発刊。〈住民の声〉を絶えず主張し続けた生粋の新聞人。著書に『新聞五十年』がある。琉球新報賞・沖縄タイムス賞・沖縄県文化功労賞を受賞。享年82歳。(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

・明治の新聞

(中略)これら創刊以来の「琉球新報」の足取りをたどってきて明らかなことは、その設立に際して、奈良原や尚順ら体制を代表する人々の参加はあったが、しかし彼らの意思は「琉球新報」を動かす主導的な力とはなりえなかったということである。むしろ、体制を代表する人々の意思に抗して「琉球新報」は社会の公器として運営されてきたといってよい。その抵抗の中核にあったのが、上杉県令の薫陶をうけて比較的開明的だった太田や、彼の影響下にあった若い記者たちであった。

尚順が奈良原との結合を「琉球新報」にたたかれて、「そんなことを書いては困る」と太田に注意した時も、太田は、平然として、「あなたはそうかも知れぬが、新聞社はこうとる」と答えて、自説をまげなかった。太田の下で若き日の新聞記者生活をおくって、後に「沖縄朝日新聞」の創立に参加した仲吉良光も、その懐古録「私の新聞記者時代」のなかで、太田を民衆から信頼された先覚者だったと書き、さらに筆を進めて「先覚者もまた沖縄のかじ取りを自覚して、私心がなかった」と記している。

沖縄における「明治の新聞」といえば、他にも1903年(明治36)創立の沖縄新聞がある。が、これは「琉球新報」創刊より10年も遅れての創刊であり、それに寄留商人の出資によってできた彼らの機関紙で、かなり派閥色濃厚なものであった。明治から大正にかけて、他には沖縄毎日新聞なども発刊されたが、それも那覇の地元商人をバックとしたもので、広報機関紙の趣があった。それらのなかでは、「琉球新報」は旧支配層を背景に誕生しながら、しかも太田らの良心と良識によって、社会の公器としての性格を比較的堅持してきた正統の言論機関であった。

しかし、それもやがて県制が施行され、追って衆議院銀選挙法が実施されて、政争がはげしさを増した1911年(明治44)から1912年(明治45)ごろから、尚順のかなり露骨な干渉によって公器としての性格があやしくなり、これまで結束してきた社内も二つに割れて、沖縄朝日新聞の分離新設という分裂騒ぎを起こしたのであった。

ことの起こりはこうであった。宮古島民による人頭税廃止運動や、謝花昇らの自由民権運動が功を奏して、1899年(明治32)2月んは、沖縄に参政権を約束する選挙法中改正律案が衆議院で議決され、これはやがて土地整理を経て、1912年(明治45)3月にようやくその実現をみた。

それより前、1909年(明治42)には4月に特例付ではあったが、府県制が沖縄にも実施され、追って同年6月には県会議員の選挙も行われた。後年の選挙と異なって、当時の選挙は区村会議員が県会議員を選出するいわゆる復選制の選挙であったから、県会議員選挙で大騒ぎすることもなかった。ところが国会議員選挙となると、民衆はともかく、上層部の方が色めきたった。そこには、とくに県外での栄達となるとお互いに足を引っ張りあって泥仕合におちいるといった沖縄の人々、とりわけ沖縄の支配層の、長い他藩や他府県の人々の支配によって生じた心理的なひずみが想定されるが、とにかく国会議員選出にあたって、尚順は自らの門閥の進出をあかるために、露骨な干渉をはじめた。

(中略)いよいよ任期があけて、第二回の衆議院選挙があらためて、沖縄で行われた時、護得久も正式に立候補した。が、選挙中、護得久派は投票買収にからむ選挙法違反で、40数人も警察に検挙されてしまった。そのニュースを当時「琉球新報」の記者で検事局担当だった末吉麦門冬がキャッチして原稿にまとめ、社に提出した。編集担当の仲吉良光がその記事に大きな見出しをつけて工場へ送ったところが、早速尚順に当時の琉球新報社社長渡久地政成が呼び出されて記事差止めを命じられた。渡久地は青くなって編集局に飛び込み、ゲラ刷りになった記事を見て、「これは護得久さんに大打撃だ。ちょっと控えるわけにはいかんか」と、担当の記者にいった。が、編集局にいあわせた記者たちは口をそろえて、それでは新聞の公正さを欠くと反対した。そのため、とうとう社長が机に伏して泣き出すという一幕があって、記事は握り潰されてしまった。これが第二の干渉であった。(中略)それは明らかに尚家門閥による沖縄政財界の独占であり、かつ報道機関の抱き込み策にほかならない。こう判断したのが、当時、「琉球新報」の記者だった、当真嗣合、仲吉良光、末吉麦門冬、小橋川南村、嘉手川重利らの面々であった。それなら、「琉球新報」と袂を分かってあらたに門閥打倒の新聞を新設しよう、ちょうど、中央の影響もあって沖縄の青年たちの間にも普通選挙思想が芽生えつつある。これを好機とみてとった彼等は、協議の結果、「沖縄朝日新聞」を新たにおこすことに決定した。この動きに、先に尚順によって冷遇された高嶺朝教と仲吉朝助が援護の手を差し伸べた。こうして1915年(大正4)に「沖縄朝日新聞」の創刊を見ることにいたった。 (近代沖縄の歩み、新里金福・大城立裕共著より抜粋)

・琉球新報 1951.09.10~

戦後発刊された沖縄二大日刊紙の一つ。1945年(昭和20)7月、米軍政府機関紙として、石川市で創刊された「ウルマ新報」がのちに民営となり、現在の名称に改題されたもの。同紙が創刊されたのは、日本降伏の20日ほど前で、沖縄本島南部や北部山間部ではまだ掃討戦が続けられていたころであった。混乱した民心を安定させ、軍政の周知徹底をはかる目的で、米軍が強制的に発行させたのが、これが戦後沖縄新聞史の始まりとなった。石川市が発行市になったのは、当時、同市が数万人の難民を抱える米軍指定収容地の一つであったことや、近くの東恩納に米軍政府があったことなどによる。タブロイド判のガリ刷り2ページで週刊無償配布された。創刊は2000部、第六号からは活版刷りとなり、部数も7000部に増刷され、のち2万部となる。

同紙の特徴は、編集スタッフがすべて新聞制作の経験のない素人であったことや、社長(島清)をはじめ従業員全員が米軍政府(のち沖縄民政府)の職員であったことである。スタッフた素人に限られたのは、米軍が戦前・戦中の新聞関係者たちを〈戦争協力者〉と見ていたからだといわれる。ちなみに創刊に携わった人たちは、島清をはじめ糸州安剛、城間盛善、金城直吉、仲村到良、大村修一、高良一などである。

その後1946年(昭和21)には題字をひらがなの「うるま新報」に改めるほか、〈米軍政府並びに沖縄民政府の機関紙〉に指定されたが、1947年(昭和22)4月からは株式会社に改編、民間新聞(購読料は月額10円)としてスタートした。対日講和条約締結2日後の1951年(昭和26)9月10日、「琉球新報」と改題され、現在にいたる。〈宮城悦次郎〉 (沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

・又吉康和 またよし・こうわ 1887.9.21~1953.9.22

ジャーナリスト、沖縄民政府初代副知事。泊村生まれ。沖縄県立第一中学卒業後、愛知医学専門学校に進んだが、中退して、早稲田大学に学ぶ。1915年(大正4)に帰郷して「琉球新報」記者となり、19年には同社編集局長となる。同年8月、主筆”太田朝敷”に従って「沖縄時事新報」の設立に参画、太田社長のもどて編集局長を務めた。1929年(昭和4)に太田が琉球新報社長に復帰したとき主筆、39年、太田の急逝により同社社長。41年、一県一紙への統合で、「沖縄新報」の常務監査役となった。

戦後は沖縄諮詢会委員(総務部長)、ついで沖縄民政府副知事となった。1952年(昭和27)4月には「琉球新報」の社長となってその基盤を築き、ついで那覇市長を1期務めた。沖縄文化をこよなく愛するとともに、戦前戦後を通じ沖縄政界のご意見番だった。1953年(昭和28)9月急逝、享年66歳。〈富川盛秀〉  (沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

・沖縄タイムス 1948.07.01~

県下(1983年当時)で最大の発行部数をもつ日刊紙。戦時中の唯一の新聞「沖縄新報」の編集同人たちが中心になって1948年(昭和23)7月1日、那覇市で創刊した(ただし、創刊より2日前に通貨切り替えをスクープした号外を出している)。創刊当初の陣容は、社長の高嶺朝光を中心に、座安成徳(経営・資金面担当)・豊平良顕(編集担当)・上地一史(編集局長)・具志堅政治(営業局長)・前田宗信(総務)らのスタッフに、、上間正諭・牧港篤三・大山一雄らが編集同人となっていた。

当初はガリ版刷りのタブロイド判で週2回刊。49年11月から日刊となり、52年7月から夕刊も発行。敗戦とそれに続く生活苦のため、住民はともすると虚無的になりがちだったが、言論活動によって人々の精神復興をはかろうとする同紙は、創刊号から社説を載せ、歯に衣きせぬ論調は、住民の信頼を得るにいたった。

とくに自治権拡大闘争や復帰運動については、一貫して住民の立場にたった主張を展開、その果たした役割は大きい。教育や文化の振興にも力を注ぎ、創刊一周年記念事業として沖縄美術展(沖展)を開催、翌50年には住民の沖縄戦を記録した「鉄の暴風」を発刊した。また、地方自治、産業・経済。文化など地元の発展に貢献した人たちを顕彰する〈沖縄タイムス賞〉を設けている。(中略)〈保坂広志〉 (沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行より抜粋)

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