公同会運動の顛末 頑固党とオールおきなわ その1

前回まで長々と1896年(明治29)の公同会運動の背景について説明しました。ブログ主がこの事件に非常に興味を持ったのは、犬猿の仲であった開化党と頑固党が手を組んで政治運動を展開した意味不明さを自分なりに解釈したいという気持ちになったことと、もう1つ当時の頑固党の社会的な立場と、現代のオールおきなわ(とくに旧革新勢力)の立場が驚く程似ていることに気が付いたからです。 

社会システムも主義主張も違うので単純に比べるのも無理はあるのですが、それを承知の上で少なくとも下記の2点では頑固党とオールおきなわは共通しています。それは

1.戦争の結果、自分たちの社会における立場が激変したことを認めざるを得ない状況であること。 

2.今後の沖縄社会において自分たちの居場所がなくなることに対する恐怖感があること。 

になります。頑固党の場合は

1.日清戦争の結果、沖縄社会における勢力図が開化党>頑固党になってしまい、その構図が今後代わる可能性がなくなったことと、尚寅、尚順の両王子が断髪をしたことで、自分たちが敗者であることを自覚せざるを得なくなったこと。

2.今後日本人として生きる以外に、沖縄社会において居場所はない現実に対する恐怖感がものすごくあったこと。

と解釈できます。頑固党の人たちは家禄が明治政府によって保障されていたので、金銭的には問題はなかったのですが、元上級士族の常として社会的勢力を失うことに対する心理的喪失感は想像に難くありません。未来永劫名誉回復の機会がなくなったのですから、極端な場合は自暴自棄になってもおかしくはありません。

そんな心理状態の時に、開化党から公同会の話を持ちかけられたため、名誉回復のチャンスとばかりに飛びつくのも無理はないのです。日本人になろうが、断髪して明治政府に媚びを売ろうが、自分たちの社会的威信を取り戻す最後の機会と考えたことは間違いありません。100年後の現代人から見ると無茶苦茶な行動に見えますが、かつての上級士族にとっては社会的威信を失う恐怖感は想像できないほど強かったと考えざるを得ないのです。

現代のオールおきなわの勢力は、琉球王府時代の上級士族のように、強大な権力と社会的な威信を保持していたわけではありません。もちろん人民を苛斂誅求したこともありませんし、金銭的にも恵まれているとは言い難い人たちです。ただし残念なことに旧革新勢力は将来の沖縄社会において、明治時代の頑固党と同じく没落していくことは間違いないのです。(続く)

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