図解してみた – 幻の組織”極南会”

昭和38(1963)年11月21日から、又吉世喜殺害未遂事件(ほか証人脅迫)の裁判が米国民政府高等裁判所で始まりました。被告人は喜舎場朝信、新城喜史で、実はこの裁判は琉球・沖縄の歴史上初の”大陪審員制度”で行われた歴史的な出来事です。

ちなみに実行犯の(疑いがある)山中一夫は国外である”宮崎県”で逮捕されるというこれまた異例の展開ですが、この裁判においてコザ派内部に”組織”が存在していたという証言が飛び出して世間は騒然とします。

この証言は、同月22日の第二回公判で明らかになったもので、組織図は以下のようになります。

裁判に証人として出廷した元コザ派幹部仲里昌和(なかざと・まさかず)、および会長の喜屋武盛晃(きゃん・せいこう)の証言によると、①極南会の設立は昭和37(1962)年、②設立理由は那覇派に対抗するため、③提案者は喜舎場朝信、ただし組織とは一線を置くとの合意があった、④会の合議は喜屋武盛晃の自宅で行われた(ちなみに喜屋武宅は喜舎場宅の隣にあった)などが確認できました。人事図は以下のとおりです。

設立時の話も非常に興味深く、喜屋武の証言によると、①会の設立は喜舎場宅で行われた、②喜屋武を会長に推薦したのは喜舎場、③喜舎場は会にはタッチせず組織運営は喜屋武に委任、④組織の設置後に喜舎場宅は出入り禁止になった。

などがあります。組織の原型は本土でヤクザ経験のある仲里昌和と喜屋武で作成し、”極南会”のネーミングは当時大阪の大田会という組織に所属していた瑞慶覧某がつけたと証言しています。そして会員数が約100名、支援団体50名の大掛かりな組織が誕生し、運営資金も喜舎場さんから提供されるという恵まれた環境でしたが、実はこの組織ほどんど機能しなかったのです。

その理由は会長である喜屋武よりも、顧問格で(人事的には)組織の外にいる新城喜史の権限が強かったことです。つまり幹部が会長のいうことを聞かないケースが後を絶たないため、組織内に本部派(=山原派:新城人脈)と泡瀬派(喜屋武人脈)との対立が醸成されるようになったのです。そしてこのことが後の第二次沖縄抗争(コザ派の分裂)の伏線になります。

それと同年7月に起こった多和田真山による安富登殺害事件、および又吉殺害計画における内部対立、そして同年12月の琉球警察による一斉手入れによって極南会は有耶無耶のうちに消滅してしまいます。それゆえにこの案件は史料に乏しく、現在確認できたのが琉球新報および沖縄タイムスの記事のみになります。おそらく現役さんでも極南会について詳しい人はいないのかもしれません。

ブログ主はこの案件に非常な興味を覚えました。理由は「うちなーんちゅは機能集団である組織運営を苦手にしているのでは」という疑問が常に頭の中にあったからです。事実沖縄のヤクザが安定して組織運営できるようになったのは平成に入ってからで、それまでは試行錯誤の連続でした。”アシバーのシンカ”という共同体もどきを機能集団に変換させることの難しさを実感しつつ今回の記事を終えます。

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