図解してみた – 第六次沖縄抗争

既報ですが、7月12日に指定暴力団「旭琉會」の富永清会長が死去しました。当ブログでも当日午後から彼について言及した記事のアクセスが異様に伸びていたので、現代の情報伝達スピードの凄さを実感した次第ですが、今回は”富永清”の名を世間に知らしめた第六次沖縄抗争について図解を試みましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。

今回は琉球新報などの公開情報を利用して旭琉会の分裂にいたる流れを考察してみました。平成2年10月19日の分裂騒動のきっかけはやはり昭和57年(1982年)10月の多和田真山会長射殺事件までさかのぼります。その時の流れは下図参照ください。

補足すると主流派と反主流派の対立は、当時多和田会長が強引に進めていた組織改革に対する反発です。その詳細について今回は言及しませんが、反主流派の中心と見做されていた富永理事長の組幹部が多和田会長を射殺したことで組織に緊張が走ります。ただしこの時は主流派・反主流派とも自制をして全面的な抗争には至りませんでした。

全面的な抗争に至らなかった理由は、反主流派の方が勢力的に優勢だったことと、この機に乗じて上原組が旭琉会の組長を銃撃して勢力拡大を試みた事件が発生したからです。最終的には昭和58年(1983年)5月に翁長良宏氏が3代目会長に就任して組織は落ち着きを取り戻します。

だがしかし旭琉会は組織内に大きな弱点を抱えていたのです。それは下図を参照ください。

簡単に説明すると、かつての主流派 vs 反主流派の構造が会長派 vs 理事長派に変わっただけで対立構造がそっくりそのまま引き継がれてしまったのです。しかも会長派(4)vs 理事長派(6)で理事長派のほうが優勢です。ただしこれだけなら双方が自制すれば大きな問題にはなりません。

旭琉会の組織のややこしいところは、会長派傘下のC組内のX組が理事長派に属し、理事長派傘下のD組傘下のY組が会長派に属するというような、派閥内ですら一本化されていない状態だったのです。これはハッキリいって平時でも好ましくない上、有事の際には大きな火種になります。そしてこの複雑極まりない状態が平成2年の分裂騒動の伏線になったのです。

平成2年10月の分裂騒動は下図参照ください。

平成2年5月の両派対立は琉球新報の記事(平成2年9月24日付朝刊)よると、

① ある一家の総長が山口組との関係をめぐって会長から処分された

② 組員同士のトラブルをうまく解決できなかった組長に対し、会長が破門を言い渡した

とありますが、この時は何とか対立を回避します。だがしかし同年10月13日の事件が決定打になって両派は分裂してしまうのです。その事件については下図参照ください。

本来なら会長派傘下の丸長一家の内輪もめで終わるはずの案件が、巴組が理事長派に鞍替えしたことで大騒動になってしまったのです。しかも間の悪いことに、このとき富永理事長は病気治療のため沖縄にいませんでした。そしてあとは坂道を転がり落ちるようにどんどん悪い方向へ進んでしまうのです。

その後三代目旭琉会と沖縄旭琉会は組織再編に力を尽くします。そのいきさつは「沖縄ヤクザ50年戦争」に記載されていましたが、それは組織内の不安要素を放置していたことが大抗争の伏線になったことを当事者たちが十分理解していたからです。それにしても

多和田会長が強引な組織改革に着手しなければこんなことにならなかったのに

と史料整理しながらつい愚痴を飛ばしてしまったブログ主であります。(終わり)

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