女子教育と本縣 – その2

今回は明治33年7月5日付、琉球新報に掲載された『女子教育と本県』の後半部を掲載します。太田朝敷先生のイメージを悪くした「クシャミ発言」はこの中に記載されていますが、演説全文を通してみますとそこまで大騒ぎする発言ではありません。「沖縄は差別されている」という観念をいったん頭に中から意識的に取り除いて通読することをお勧めします。後半部も前半と同様に現代文への翻訳と原文を併記しています。

● 女子教育と本県(承前)

明治十七年の頃と今日と比較する時は本県の女子教育は実に長足の進歩で小川会長の云われます通り十七年には学齢三万人の中就学者は只十七人しか居なかった処、今日になりては百人中三十三人の就学者があるとすれば非常の進歩でございます。乍併(しかしながら)他府県と比較しますればまだ〱半途にも達しない位ひでございます。

前にも申します通り、文明は綜合したる名であって一局部一事物に就て下したる名ではありません。さすれば我沖縄は日本の文明を傷つけて居ると云はなければなりません。何となれば他府県には女子就学者の百分比例が三十三と云ふ少い数はない。全国の平均数を取ったならば日本は我沖縄の為めにその数を減ぜられなければならん。果たして女子教育の盛衰を以て国の文野を区別せらるヽものとすれば即ち日本の文明は沖縄の為めにその幾分を傷つけられたるものと見なければなりません。我々沖縄県人たるもの誠にお恥かしい次第でございます。

沖縄今日の急務は何であるかと云へば一から十まで他府県に似せることです。極端に云へばクシャメする事まで他府県の通りにすると云ふことです。全国の百分一位ひしかない地方でありますからそれ位ひな勢力では到底従来の風習を維持して行くことは出来ない。維持ができないものとすれば我から進んで同化するか、自然の勢ひに任すか、取るべき道は二つである。即ち積極的にやるか消極にやるかの二つでございます。若し消極的に同化させやうとすれば優勝劣敗の法則に支配されて幾多の不利を感じなければならぬ様になります。大木の下にある小木が生長しないと同様は理屈であるから斯う云ふ場合には寧ろ人為でも引延ばして大木に圧倒させぬ様にしなければならんと思ひます。

さて他府県同様にするに尤も欠くる所は何かと云ふに女子です。私が帰って来ます途中鹿児島で舟着場に久米村の婦人が二十人ばかり一かたまりになって立て居るのを見ましたが、当地では目に馴れて何とも思ひませんけれども、彼地では私にさへ余程目につきました。況んや他府県の人々の目で見れば余程異様の感が起るだろうと思ひます。本県を他府県同様にするには先づ本県人の頭から内地と云ふ観念を取りのけて仕舞ふことは勿論他府県人の頭からも琉球と云ふ観念を取りのけて仕舞はなければならんのに、斯る有様では一種特別の琉球視せらるヽことは何時までも免がれないと思ひます。此等外観の改良も女子教育が盛んにならなければ到底出来るものではありません。要するに他府県風の家庭を作り、他府県にもドシ〱入込ん行て、他府県と本県との関係が人と人との関係のみならず家族と家族の関係がなければ内地琉球の墻壁はとれないと信じます。この仕事は誰の手にありますか、則ち女子の手です。女子をしてこの仕事を成就せしむるものは何でありますか、勿論女子教育です。

他府県では女子教育に就ては何れの地方でも小学校は勿論本校の如き高等女学校や女子師範学校のない所はありません。本県には女子師範学校と云ふてはありませんけれども講習会はその卵子であります。そこで今般本校が出来ましたからこれで女子教育準備の端緒を開きました。沖縄が文明の域に入るはこれ等の諸学校が盛んになりまして、女子教育が普及する時と思います。今日は婦人方や学者先生方御列席のお場所をも顧みず喜びの余り思ふ所を申し述べた次第でございます。(終り)

● 女子教育と本縣(承前)-  原文書き写し

明治十七年の頃と今日と比較する時は本縣の女子敎育は實に長足の進歩で小川會長の云はれます通り十七年には學齢三万人の中就學者は只十七人しか居なかつた處今日になりては百人中三十三人の就學者かあるとすれは非常の進歩でございますし乍併他府縣と比較しますれはまだ〱半途にも達しない位ひでございます

前にも申します通り文明は綜合したる名であつて一局部一物事に就て下したる名てはありませんさすれは我沖繩は日本の文明を傷つけて居ると云はなけれはなりません何となれは他府縣には女子就學者の百分比例か三十三と云ふ少い數はない全國の平均數を取つたならは日本は我沖繩の爲めにその數を減せられなけれはならん果たして女子敎育の盛衰を以て國の文野を區別せらるヽものとすれは則ち日本の文明は沖繩の爲めにその幾分を傷つけられたるものと見なけれはなりません我々沖繩縣人たるもの誠にお恥かしい次第でございます

沖繩今日の急務は何であるかと云へは一から十まて他府縣に似せることです極端に云へはクシャメする事まで他府縣の通りにすると云ふことです全國の百分一位ひしかない地方でありますからそれ位ひな勢力では到底従來の風習を維持して行くことは出來ない維持が出來ないものとすれは我から進んて同化するか自然の勢ひに任すか取るへき道は二つである即ち積極にやるか消極にやるか二つでございます若し消極的に同化させやうとすれは優勝劣敗の法則に支配されて幾多の不利を感じなけれはならぬ様になります大木の下にある小木が生長しないと同様な理屈であるから斯う云ふ場合には寧ろ人爲でも引延ばして大木に壓倒させぬ様にしなけれはならんと思ひます

さて他府縣同様にするに尤も缺くる所は何かと云ふに女子です私が歸つて來ます途中鹿兒島で舟着塲に久米村の婦人が二十人ばかり一かたまりになつて立て居るのを見ましたが當地では目に馴れて何とも思ひませんけれども彼地ては私さへ餘程目につきました況んや他府縣の人々の目で見れば餘程異様の感か起るだらうと思ひます本縣を他府縣同様にするには先つ本縣人の頭から内地と云ふ觀念を取のけて仕舞ふことは勿論他府縣人の頭からも琉球と云ふ觀念を取りのけて仕舞はなけれはならんのに斯る有様では一種特別の琉球視せらるヽことは何時までも免れないと思ひます此等外觀の改良も女子敎育か盛んにならなけれは到底出來るものではありません要するに他府縣風の家庭を作り他府縣にもドシ〱入込ん行て他府縣と本縣との關係か人と人との關係のみならす家族と家族との關係かなけれは内地琉球の墻壁はとれないと信しますこの仕事は誰の手にありますか即ち女子の手です女子をしてこの仕事を成就せしむるものは何でありますか勿論女子敎育です

他府縣では女子敎育に就ては何れの地方でも小學校のない所はありません本縣には女子師範學校と云ふてはありませんけれども講習會はその卵子でありますそこで今般本校か出來ましたからこれで女子敎育整備の端緒を開きました沖繩か文明の域に入るはこれ等の諸學校が盛んになりまして女子敎育か普及する時と思ひます今日は婦人方や學者先生方御列席のお塲所をも顧みす喜ひの餘り思ふ所を申し述へた次第でございます(終り)

● 明治33年(1900年)7月5日 – 琉球新報2面

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