岸本賀昌さんから学ぶこと

今回は岸本賀昌(1868~1928)さんについての記事を掲載します。現代の沖縄県民にとっては忘れられた存在かもしれませんが、戦前の沖縄県においては、漢那憲和屋部憲通などと並び称された三大有名人でした。

彼は明治15年(1882年)に県費留学生として上京し、慶應義塾を卒業後つねにエリートの先端を切って歩いた人物です。その経歴は『沖縄の百年 – 第一巻人物編』から抜粋しましたので是非ご参照ください。

1868年(明治1)年那覇市に生まる。1882(明治15)年第一回県費留学生として上京、学習院や慶應義塾に学ぶ。沖縄県庁勤務から内務省に抜擢されて町村課の係長となり、石川県参事官、沖縄県参事官、同学務課長を経て1912(明治45)年沖縄で初の衆議院議員選挙に当選、国政に参与する。晩年は那覇市長。公務で上京中1928(昭和3)年病没。61歳

引用:琉球新報社編『沖縄の百年 – 第一巻人物編』65㌻

上記の引用とおり、彼は挫折知らずのエリート街道を歩んでいますが、その理由として『沖縄の百年』では彼がもつ天性のユーモア気質を挙げています。たしかに岸本さんには笑い話が多く、ほかの謝花昇や太田朝敷といった他の留学生たちにはない剽軽な一面が目につきます。ためしに琉球新報に掲載された記事をご参照ください。

岸本賀昌と選挙の歌

平素は新生活運動を唱え、迷信打破を主張している人も一度死活の問題になると動揺して迷信のとりことなりやすい。ことに選挙などになると当落が気になって縁起をかつぐ。やれ選挙事務所の方角が自宅から金神(こんじん)にあたるからいけない。

運動員、何某の「えと」を調べたら候補者とは相性でないから考えものだ。演説会の日取りが仏滅でもしかしたら浅沼さんみたいに暗剣殺の禍いを蒙るかも知れない。とまではゆかないが、こうした迷信からくる、おどかしに候補者の家族たちは心を痛める。

岸本賀昌が国会議員に立候補し選挙事務所に電話の特設が必要となり、友人から電話を一時借用することとなった。ところがこの電話がなんと四十二番である。四十二番といえば「死に」番だ。「不吉だからもっと縁起のよい電話をつけてもらわねば落選する」と運動員たちから不評を買った。時の選挙事務長崎浜秀主(現中央金庫理事長)もホトホト閉口したが、さりとて他に物色しても貸し手が見つからない。一同思案投げ首のところへ、演説会から帰ってきた候補者の岸本賀昌が顔を出し

岸本が当選したとリンリンと、世に響くらん鈴の音かな

と狂歌をブッ飛ばして景気をつけたところ一同ワッと沸き立って事務所も明るくなり見事に当選した。

四二番の「死に」を狂歌では「世に」と切りかえし、電話のベルを鈴の音に例えて暗に新聞の当選号外を予想させたところなど真に当意即妙。

岸本賀昌は、もともと詩歌には無頓着であった。歌も詩も、二、三はあるが、そのいずれもが作意のないものばかりで彼の明朗活達な性格を丸出しにし返って知友の間に長く記憶された。当選祝賀会が奥武山公園の某家の別荘で開催されたとき、当選の記念にと友人某が歌を求めたところ、歌はニガ手だがと遠慮しつつ

公園は皆で遊ぶ権利あり

と一句を即吟して一座を大笑させた。

全く途方もない句であり、第一条と冠詞をつけたら法文にもなりかねないものである(中略)。

引用:1960年11月2日付琉球新報5面『琉球狂歌漫筆(8)』より抜粋

その天性の明るさとユーモア気質の持ち主である岸本さんは確かに仲介役として最適任で、それ故に彼は沖縄社会の第一線で活躍してきたのもうなずけます。試しに下記引用をご参照ください。

岸本の機知は、実際、板についたものだったらしい。「あれは柔道五段だ」というと、すかさず、「君、それはヨダン(四段余談)だろう」とやりかえす。仲間が議論して一座が険悪な空気に包まれたときでも、彼の間髪いれぬウィットで、みなは笑いころげてしまう。こんな調子だったらしい。

それでこの小男は友人の人気のまとになって、岸本、岸本とどこでも引っぱりだこだったという。彼の酒好きも有名だが、よく彼は友人をたずねていって、留守宅に上がりこんで酒をチビチビやっていることもあった。それで帰ってきた友人になじられるかといえば、そうではない。彼の笑いにひきこまれて、すぐに彼のまわりにはにぎやかな酒席ができてしまう。岸本の天衣無縫ぶりがしのばれる話である。

こんなふうだったから、彼はまとめ役としても貴重な存在だった。ケンケンゴウゴウとして一座がまとまらないときでも、岸本が姿をあらわすとすぐに意見がまとまってしまう。日露戦争のとき、沖縄にもいくらかの国債が割り当てられた。時の奈良原知事がこれを聞いて、「いやしくも日本帝国が沖縄から金を借りるなど、もってのほかだ」と怒った。ところが岸本が例のウィットで説きふせたので、さすがに奈良原も「ああそうですか。じゃあ君にそれは一任する」ということになったという。

引用:琉球新報社編『沖縄の百年 – 第一巻人物編』66~67㌻

正直なところ岸本さんのエピソードは少ないのですが、その数少ないエピソードからも何故謝花昇が最終的に失敗して、彼が成功したのがを察することはできます。つまり社会の第一線で活躍し続けるためには学歴などの肩書だけでは駄目、ハイスペックだけでもダメ、高いコミュ力を兼ね備えないと本来の能力を発揮できないケースがあることを示しているのです。

それを考えると、今月21日の参院選で落選した人(あえて名前は出しません)は、SNS上でやたら有能&いい人アピールをしていましたが、

こいつはまとめ役としてふさわしくない

と見做されたことが敗因のひとつではないかと思われます。なぜふさわしくないかはご本人およびスタッフのみなさんもうすうすお気づきかと思いますので、この敗戦を機に復活をとげることを祈りつつ今回の記事を終えます。

 

 

 

 

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