恐怖の白い粉(6) 原産地とルート

タイ国、専売制度を設け売りさばく いわゆる「発見の時代」にヨーロッパ人がやってくるまで、東南アジアの人々は、アヘンを知らずにいた。アヘンが公然と流れるようになったのは十九世紀。それは、十八世紀にイギリスの「東インド会社」が中国にアヘンを持ち込んできたのが最初だという。アジア人にアヘンは膨大なもうけになることを教えたのは今世紀になってからといわれる。一九二〇年ごろになると、タイ政府がアヘンから吸い上げた利益は、国庫収入の十五二〇%を占めたという。

タイやフランス領インドシナなどの政府は、アヘンの専売制度を設置してインドやイランからアヘンを輸入して消費者に与えていた。

だが、この輸入も第二次大戦の影響でむつかしくなった。それで活用されてくるのが黄金の三角地帯でのケシ栽培である。ビルマ、タイ、ラオス北部の山岳地帯を指すが、そこにはメオ族、ヤオ族、中国雲南省の山岳民族が住み、十九世紀ごろからケシの栽培をはじめ、一帯の他の民族部族もこれにならって植えはじめている。ケシの栽培にはかっこうの、海抜千㍍の適地であった。ケシは麻薬をうみ出す魔の花である。この三角地帯の貧しい農家が栽培するケシの花が大戦後は、世界各地の麻薬中毒患者に流れ、恐怖の麻薬時代の幕開けとなる。

19世紀から流れるアヘン / 英国人「一攫千金」を伝授

一年の農業計画 / ケシ栽培が中心 これらの農家はトウモロコシと稲をわずかに植えているが主要作物はケシである。従って一年の農業計画もケシの花の収穫期である十二月と一月を中心に立てられている。収穫期はいわば農繁期であり、文字通り家族総出で昼夜兼行して働く。一年の生産量は生アヘンは千㌧。これは五、六百人の中毒患者を生み出す数量だ。一九六七年、三角地帯を調査した国連麻薬統制委員会は「山岳部族に深く浸透している社会的条件に合わせて、彼らの物品ならびに現金収入に関するわれわれの調査は、現在の条件の下でアヘンに代わる経済的価値のあるものを見いだすという問題に対して、短期間で実現可能な全面的解決法は存在しないであろう」と憂うつな結論を出している。

収穫期がすむと、彼らは生アヘンをシャン高原やタイとラオスの内陸部から国境地帯の村落へ運ぶ。部落民が長い行列をつくりおのおの二十五㌔ぐらい担いで、一週間歩き続ける。国境の村落でアヘンをおろすと一㌔五㌦から十二㌦の支払いを受ける、彼らの現金収入は、年にこれだけといわれる。これらのアヘンは、麻薬密輸業者によって、バンコク、ビエンチャン、サイゴンに向け、さまざまなルートを通って手渡されていく。そのにない手は、国府残存部隊であったり、第一次インドシナ戦争中は、対ベトミン用の現地ゲリラ部隊を養成するフランス軍であったりした。その後、アメリカ軍が進出し、パテト・ラオ軍と戦うため勇猛なメオ族を利用したのが麻薬禍をつくるきっかけとなる。メオ族を握るためには、彼らのアヘンを買わなくてはならなかったのである。そのその背後には国際的な麻薬犯罪組織が強力にからんでいたというわけだ。

ベトナム帰還兵を使いボロいもうけ この犯罪組織は、ベトナムにいる多くのアメリカ兵たちに対し、本国に帰還する仲間に麻薬を持ち帰らすことによってボロもうけするといった関係をつくり出し、ベトナム戦争をヘロイン取引の場所とした。軍そのものをルートに組み入れたといえる。兵員や物資を戦場に送ったり、運び出したりするアメリカ軍の大部隊が格好の役割と連絡を果たしたのは、「沖縄マフィア」や退役軍人のケパート一味の例で知れよう。沖縄に流れ込む麻薬は、すべてこの犯罪組織と米軍のくされ縁を基にして成りたっている。

現在、こうして利用されているルートは大きく分けて六ルートあるとされている。香港ルートは上質はヘロイン、チャイナ・ホワイト、バンコクルートは、質がやや落ちるレッド・ロック、フィリピンルートはさらに質が落ちるピンクオピューム。タイルートは上質なホワイト、大麻、ベトナムはあらゆる麻薬、さらにインドからの大麻など。そのいずれも、米軍基地をかくれミノにして次々に世界各地へ運ばれている。東京ではヨーロッパルートもあるが、沖縄にはない。それは、基地をルートにした麻薬組織がそれだけ強力に縄張りを仕切っているからだ。このことは、逆に、最善基地沖縄を踏み台に、本土へ運び込む可能性のあることを知らせている。波上大麻密売組織は、すでに鹿児島県を経由して本土上陸を実行していた。(昭和48年9月25日付琉球新報夕刊3面)

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